論語4-26 子游曰事君數斯辱矣:原文対訳と解説

論語
里仁第四
26
子游
公冶長
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
下村湖人
要検討
子游
子游しいう
曰いはく、
 子游しゆうが
いった。
事君
君きみに事つかへて
数しばしばすれば、
「君主に対して
忠言の度が過ぎると、

辱矣
斯こゝに
辱はづかしめらる、
きっと
ひどい目にあわされる。
朋友
朋友ほういうに
数しばしばすれば、
友人に対して
忠告の度が過ぎると、

疏矣
斯こゝに
疎うとんぜらる。
きっと
うとまれる。」

 

※本章の最後にして、唯一冒頭が孔子ではなく弟子の子游で始まる(里仁第四目次参照)。
しかもその内容は、孔子の説く仁の文脈と真逆(6でいう好仁者ではなく、12の「利によって行えば怨み多し」の実践)とも言える。

 そして本章のような、孔子の仁と隔絶した本章の弟子の発言から、前章の内容(徳は孤ならず必ず隣あり)との整合性が問題になり、ここから(里)仁と徳の違いが示唆される。

 といっても学者風の空虚な観念論ではなく、「仁徳」というように「仁」が上位(精神的)概念、「徳」は下位(世俗具体的)概念で、「仁」が里(精神的拠り所)、「徳」が世俗出仕利益に対応している。したがって「徳を積む」とは世俗世間で良く働き、良い経験を積み重ねる意味で、人間性の高まり(思考が世界と人類の進歩に貢献するものであること)までは問われない(天に)。よって「徳が高い」には奢るなどして慕われることも含む。仁と徳はイコールではないが、相反するとも限らない。そしてその判定は徳の次元ではできない。以上独自説。

 

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