原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 |
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子曰 | 子曰く、 | 先師【孔子】がいわれた。 |
里仁 爲美 |
仁じんに里をるを 美びと為なす、 |
【仁を家(常に立ち返る拠り所)とすることを 美徳となす。】 |
×「隣保生活には 何よりも親切心が第一である。 |
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擇 不處仁 |
択えらんで 仁じんに處をらざれば、 |
【あれこれ目移りして 仁に立ち返らないなら、】 |
×親切気のないところに 居所をえらぶのは、 |
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焉 得知 |
焉いづくんぞ 知ちたるを得えん。 |
【どうして (常に立ち返るべき、古の=普遍の) 知を得ることができるか。】 |
×賢明だとはいえない。」 |
【※ 里とは実家・生家(必ずしも出生地と一致しない家)・自分の出自。よってこの第四巻ではよく父母のことをいう。独立した大人なら日常でそこに帰る訳ではないが、時々帰って昔懐かしみ安まる所。 心の拠り所。なお独自説。下村訳は「 隣保(都会と対照の田舎)生活」と解すが即物的で不適当。孔子は即物(末法果てた動物的混迷)ではなく言わば唯心。物は関係ないのではなく、心・精神が先(原因)で物が後(結果)、心・精神が主で物が従。よこしまな心での利得は不当利得、という真っ当な理解(4-5富貴参照)。この邪も仁(人道・誠実)を基準に考える、というのが本章即ち本巻の趣旨である。ただし独自説。
上記下村訳が不適当な証左として下村注釈は「本章原文の「仁」は至高完全の徳というほど強い意味には用いられていない。」とするが、この見立てがまさに本章の「択えらんで仁じんに處をらざれば」。孔子が「仁」というのに、数多の日本の政治家の発言のように肝心の概念が自在に変化することはなく、多角的に説明しているに過ぎない。至高でないのに「美」の形容を用いることはない。仁で美とくればその美は美徳。即物的だから分からない。
前後で筋が通らなくなるなら(4-15吾道一以貫之参照)、理解即ち理(摂理・真理)に即した解釈ではない。この理は人の決め事ではない。つまり人がどう定義・認識するかで左右できない超越的作用。この理の理解が全ての理解の根本にあり、各人の理解と理想の次元を決めている。なお以下は次章の下村注釈】
○ 仁=孔子の道徳的理想で、理性愛というに近いが、それでは不十分である。しかもその用法には時に深浅があつて。一定しない。前節でそれを「親切心」と訳したが、その程度の意味に解した方が適切な場合もある。しかし、本章【次章のこと】では殆んど孔子の理想に近い意味が含まれているので、むしろ原語のままが適切であろう。