論語7-7 子曰自行束脩以上:原文対訳・解説

志道 論語
述而第七
7
束脩
一隅三隅
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
下村湖人+【独自】
要検討
子曰 子曰く、  先師がいわれた。
自行
束脩
以上
束脩そくしうを
行おこなふより
以上いじやうは、
【束脩(入学料)を
自ら持ってきたという
以上は
吾未嘗
無誨焉
吾われ未いまだ嘗かつて
誨をしへ無なくんばあらず。
私は未だかつて
教えなかったということはない】
    ×「かりそめにも束脩そくしゅうをおさめて
教えを乞うて来たからには、
私はその人をなまけさしてはおかない。」

 
6-19(人により教えを変える)、次章7-8(聞かれてないのに教えない)、7-23(何も隠していない)参照。

「束脩」とあるのは、授業料払っているから馬〇でもわかるようちゃんと教えろと言われて答えた発言と見る】
 

志道 論語
述而第七
7
束脩
一隅三隅

下村湖人による注釈+【当サイト注】

 

束脩
「脩」は乾肉。それを十束たばねたのが「束脩」。入門のしるしにそれを持参する習慣だつたのである。
日本でも明治の中葉頃まで、この言葉は入学金の意味に使われていた。

 
○ 本章についてはいろいろの解釈があるが、私はそのいずれにもよらなかつた。

 原文の「吾未だかつて誨ゆる無くんばあらず」を単に「教えてやる」とか「教えないことはない」とか解するだけでは、あまりにも浅薄平凡で、殆ど無意味に近いし、ことに「誨」の字には特別の意味があると思つたからである。

 

【しかし「なまけさしてはおかない」という下村訳は典型的戦前スパルタ教育であるところ、それは明治生まれの訳者の時代には普通でも、孔子は家父長的スパルタ式教育で知られているのではない。むしろ知る者は好む者に及ばない、好む者は楽しむ者に及ばない(6-18)とし純粋な内発性を最上のものとした著名な章、さらに門人が昼寝をしていてもそのままにしていた5-10から、孔子の思想と「なまけさしてはおかない」というスパルタ教育思想とは相容れない】