論語7-27 子曰蓋有不知而作之者:原文対訳・解説

釣而不綱 論語
述而第七
27
知識
互郷
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
【独自】
子曰 子曰く、  孔子曰く、


不知而
作之者
蓋けだし
知しらずして
之これを作なす者もの
有あらん、
なぜに
知らずに
出来る者が
あると思うか。
我無是也 我われは是これ無なきなり。 私にそれはない。
     
多聞 多おほく聞きき、 多くを聞き

其善者而
從之
其の善者ぜんしやを
択えらんで
之に從したがひ、
そのうち善いものを
選択して
これに従い、
多見而
識之
多おほく見みて
之を識しるす。
多くを見て
この善悪(良し悪し・当否)を識別する。
知之次也 知しるの次つぎなり。 これが知の次にある
    識である。
    以下、下村湖人訳だが
これは最早訳に仮託した下村氏自身の見解
    ×先師がいわれた。
「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、
私は絶対にそんなことはしない。
私はなるべく多くの人の考えを聞いて
取捨選択し、
なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、
判断の材料にするようにつとめている。
むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。
しかし、それが真知にいたる途みちなのだ。」

 

釣而不綱 論語
述而第七
27
知識
互郷

  

※通説は「」を書き下しのように推定の意味に解するが、文脈文末が当然の否定なので「なんぞ…ざる」という否定呼応の反語用法の応用と見る。つまり明言されない反語の否定末尾を明言したのが「我無是也」。

 つまり弟子や読者は、孔子の知性を生まれながらと思うかもしれないが、私はそう思わないという趣旨(7-19:子曰く、我われ生うまれながらにして之れを知しる者ものに非あらず)、学びて時にこれを習い(ここまでは普通)、主体的に当否を考えたと言っている(これが本邦に欠けている視点)。

 主体性と思っているのが実は集団従属的主体性と、主体性を重んじる外のコミュニティに入ればわかる。日本で言われる主体性は、集団の規律を自発的に忖度してその枠に従って動くことと。

 

 以上独自説で、下村流に言えば我流の新説。そもそも無知で新説を立てようと思うだろうか。思うに「知」とは教科書的な答えを覚えることで、そこに問題があっても取るに足らないレベルと思われている。

 それが日本の学問理論の根本にある宿命的後進性・二番煎じ性、人文系理論のドグマ的弱さ。上から与えられた問いの延長以外、無知といちゃもん以外に問う意味を知らない。地球人類は全知でないという学問の素朴な前提がない。

 理系でも思考の根本は文章。西洋に追いつけ追い越せで、通説で思考停止し条件反射・事務処理に優れる者を優秀としてきた知性の限界。

 個々の結果が問題ではなく問題分析が皮相的なことが問題。延々目先のことばかりで、根本的な基礎理論・哲学の研究を役に立たないと小ばかにして疎かにしてきた。それは一朝一夕でならない。よって世界の理系の最高峰の象徴・ケンブリッジには古典学部がある。理論の立論は単なる知識(ナレッジ≒カレッジ)の集積で生じない。理想の精神が必要。理想が安易でせこいと、安易でせこい説しか生まれない。異次元と言っても自国基準という悲哀。精神と能力を象徴する君主と首席の如く全体もそうなる。これが東西の学問の根本的違いで革命の有無。変えるなら上(頭・指令系)でなく下(手足・末端)の問題と思い、問題は良化していると誤魔化し悪化し続けるのが極東。それは摂理の無知(無理解以前の)。古の起源の本を、最初から体制維持に都合良く認識を変え続けた国の行く末。