原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 要検討 |
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子曰 | 子曰く、 | 先師がいわれた。 |
群居終日 | 羣居ぐんきよ終日しゆうじつ、 | 「朝から晩まで多勢集っていながら、 |
言不及義 | 言げん義ぎに及およばず、 | 話が道義にふれず、 |
好行小慧 | 好このんで小慧せうけいを行おこなふ、 | 小ざかしいことをやって得意になっているようでは、 |
難矣哉 | 難かたいかな。 | 【難しいのだ。】 |
×見込なしだ。」 |
【群居に加えて低俗な描写を続けて「難」と言っており、「群居」自体が論語的に災難の類なの当然で、論語は根本的に国家論であるから、本章の大意はむしろ「群居」が集合した国家社会的意味での難(一大事を成し遂げられない困難・それどころか愚策をなし人為的災いが生じる危難)を言ったものと解する。
また本章及び次章にもある「義」は、下村訳のように道とセット(道義)にされ、人の歩むべき道(法)に則ること、人が従うべきこと。人道性と同義(その道を認める人にとっては)。
道には色々あり、外道非道、極道即ち修羅道、餓鬼畜生道という道は、万物の霊長たる人として歩むべき道・王道から外れた「いきかた(way, of outlaw)」をいう。
義は「羊+我」と書き、羊は東西共通で信仰の人々、即ち、古来より普遍の神(天道・摂理)のしもべたる我という意味(prince+people=principle:原理。プリンスは神の子、即ち万能の神の受肉(子機=非本体)の象徴表現で、プリンシプルはその発言。その「神の子」はこの人だという各々の解釈で各宗教があるから、それらの発言がそれぞれ原理のように扱われている)。
以上のユニバーサルな(普遍の世界的)理から、論理必然的に一国家・一藩の伝統秩序や君主体制維持に道を求める社会に大義はない。あると言っても字義(国を超えた理)上存在しない。よって人を支配する摂理を信じる先進国が編み出す新しい決め事に、旧体制世代が反発しつつ受け入れるしかなくなる。適切に適応できないと淘汰されるのが摂理。言われるまま従ったり、人が従うべき理(道理・摂理)は自分達で決めている(自分達で決めれば何でも正しくできる)と思うことは無法そのもので、人の美徳ではないが、各々行きたい道を行くまでのこと。人の社会が厳しい動物社会と同じ原理のままで良い道理はないが、自分は猿山上層にいるからその構図で問題なく、むしろ今の立場に感謝しろと思うことを野蛮といい、その構図は人類的に常に刹那の一時で上下が入れ替わる。また、平成初期でもタン壷なる物があり住宅街で電車が便をまき散らして(沿線の子供の顔に汚物がかかって)いたように、画然と区別されるものではなく、その社会にいれば普通と思われる状態。増え続けないとおかしい、負担も当然増え続けた方が良いものだと思うのはこの野性の帰結で衰退しているなら末路。それでまた西洋でサステナブルという言葉が編み出された。日本からその種の人類的プリンシプルが生じえないのは言語の問題ではなく、論理的な根本は信仰が筋違いで、自国の排他的権威付けの御伽噺として利用しているに過ぎないから。その意味で天皇制度の源流の天命思想もまたそのような方便で、だからこそ孔子が天子たらせる天命とは本来そうした空虚な方便ではないと説話を交えて説いたとも言える。
以上全て独自】