論語2-24 子曰非其鬼而祭~見義不爲無勇也 :原文対訳・解説

十世 論語
為政第二
24
見義不為
八佾舞

 

 本章は「義を見てせざるは勇無きなり」という格言の出典で、その文脈は一般に前後脈絡がないとされるが、これは信(仰)を利用する権力者と、それに対するへつらいを見過ごすことを戒める文脈と解する(前段が信、後段が義。信義一体。そう解さないと筋が通らない。筋が通らないなら妥当な理解ではない)。孔子は一貫して権力者の前で戒めを説いてきたし、それは天命を行動原理としたから。理解できないのは信仰の中身がなくなり精神が形骸(即物)化したから。

 

原文 書き下し 現代語訳
下村湖人
子曰 子曰く、  先師がいわれた。
     

其鬼而
祭之
諂也
其鬼そのきに
非あらずして
之これを祭まつるは、
諂へつらふなり、
「自分の祭るべき霊
でもない
ものを祭るのは、
へつらいだ。
     
見義
不爲
無勇也
義ぎを見て
為せざるは、
勇ゆう無きなり。
行うべき正義を眼前にしながら、
それを行わないのは
勇気がないのだ。」

 

十世 論語
為政第二
24
見義不為
八佾舞

 
 下村注釈は本章について、

 「この一章は脈絡のない二つの訓言から成立つている。原典に何かの錯誤が生じたものであろう。
 第一の訓言は、迷信的な淫詞邪神を祭つたり、自分の祖先でもない権力者の祖先を祭つたりする風習を戒めたものである。」

 

 とするが、これを脈絡がないというのは問題意識を理解できていないことによる。最高権力者が現人神と称し、玉砕を命じた取り巻きの暴走が止まらず、人間宣言に至ってそこに疑問を持たれなかった文脈に適用してほしい。訳者のいう「自分の祖先でもない権力者の祖先を祭つたりする風習を戒めた」を。しかし訳者は、まさにその問題意識をもってしかるべき時代に生きていたはず。

 上でも下でも人は道理上、日頃享受する境遇に応じた相応の責任を負う。この道は摂理天道。権利だけ大きく口先で責任を取るといいつつ天から見て何も責任をとらず、下に責任をかぶせる、それが非道で外道。法治法治と由来も分からず言う世は末法。