論語2-11 子曰溫故而知新(温故知新):原文対訳と解説

視其所以 論語
為政第二
11
温故知新
君子不器
原文 書き下し 現代語訳
(独自)
子曰 子曰く、  孔子が言うには、
溫故而
知新
故ふるきを温たづねて
新あたらしきを知しる、
「故事にならって、
新しいことを知る、
可以
爲師
以もつて
師しと為なす
可べし。
これをもって
師となす
べきである」

 

視其所以 論語
為政第二
11
温故知新
君子不器

解説:故事に師事すべし

 
 

 本章は熟語「温故知新」の由来で、その意味は一般に「昔の事をたずね求めて、そこから新しい知識・見解を導くこと」と理解されている。

 しかし本章ではこれに続き「可以爲師矣」とあるので、それと一体で理解する必要がある。

 

可以爲師
「可以爲師」について、下村湖人訳のように「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある」と、人としての教師の資格を認める意味に解する見解もあるが、孔子は求める理想が人類史上最も高いレベルにあり(子曰く、仁に当たっては師に讓らず:15-35)、なのに一般論で師の資格を誰かに認める方向に捉えるのは無理がある。論語研究には古来教育者が多いから、こうした解が流布していると思われ、彼らにはそのように解く(説く)動機が類型的にある。また原文にない主体を補い、語尾の有無で文意が全く異なるように解するのは解釈として不適当でもある。
私見では孔子の発言として、世の教えは大抵当てにならないから、歴史の淘汰を経た故事(その実質は常に時代の知的最先端)に師事すべしということで、新しい知識を求める人に教師の資格を認めたものではない、と解する。
このような理解から、「新あたらしきを知しる、以もつて師しと爲なる可べし」(漢文叢書)・「新あたらしきを知しれば、以もつて師し爲たる可べし」(國譯漢文大成)ではなく、「温故知新」という理念・古典の精神を師となすべし=師事すべしとした。