論語8-9 子曰 民可使由之不可使知之:原文対訳・解説

興於詩 論語
泰伯第八
9
民可使由之
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
【独自】
子曰 子曰く、  孔子曰く


使由
民たみは
之これに
由よら使しむ
可べし、
民は
結論の
理由によらしめる(従わせる)
べきであり、
不可
使知
之を
知しら使しむ
可べからず。
結論のみを
知らしめ(それに従わせ)ては
ならない。
   
以下、下村湖人の訳だが文言から離れ不適
    ×「民衆というものは、
範を示して、
それに由らせることは出来るが、
道理を示して、
それを理解させることはむずかしいものだ。」

 
※明確な対句は、表面一義的にではなく、有機一体で多義的な意味に解す必要がある。繰り返しも対極も、文言に忠実に文脈に即して解する、

 本章の「由」は理由と依拠の掛詞と解すべきで、かつネガティブな「知」と対比したポジティブな文脈である。裏返して言えば、そう解さなくてはならない。

 

 この対句性の理解がなく、独善的一面的・読解力理解力のために、結論に拠らせるだけで理由を知らせてはならないという語義矛盾した強権的な説に至るが、それはそれが良いと思っている自分達の思想の投影で、自分達本位で独善的に解釈した背理による。

 孔子は君子論=歴史に残る賢君の在り方を説いたのであり、黙って従わせろという趣旨のことは全く説いていない。そういう人は掃いて捨てるほどいるので世界的哲人の列には加わらない。しかし日本には世界的哲人がなく、自前の哲学は皇室万世不可侵の大政翼賛が関の山なので、帝・天皇も天意に従う(8-19)発想がない(天命思想が私物化され現人神を称し人間宣言に至る)。よって下村訳は、堯のみが天に則るを天と共にあると曲げる(8-19)が、彼は戦前日本の教育者なので致し方ない。

 また上記の結論だけ知らしめろという説は、知る者好む者に及ばない、好む者楽しむ者に及ばない(6-18)という論語を代表する文脈とも相容れない。

 詰め込み式で訳も分からず覚えさせるから日本の学問・理論は世界をリードできない。いつまでも西洋に追いつけ追い越せマインドで、彼らが善政と称す圧政と戦って編み出した理念を訳も分からず体制都合で利用し、精神を理解しないから知的に追い越せる道理がない。その一例が天命・天子思想で法の支配。いずれも人を支配する摂理・天道信仰に基づく。その世界的信仰を認めないから、8-16で孔子がもう知らないとした「不信」を「不信実」とひねる。孔子は天命を知った(2-4)としており即物ではない。

 

 日本の古文教育の問い方も、本章の背理的解釈を地で行くもの。最近論理を言い出しても、その大本に語義文脈を自分達の認識に合わせ自在に定義する背理がある。西洋の理は摂理で日本のは自分達の決め事。その認識なくその論理は世界で通用しない。料理は通用しても論理は通用しない。同じ口でも意味が異なる。意味には味(ミーニング)がある。これが摂理。自分達で意味を決めていると思うのが日本的論理。しかし味覚は自分達で決められない。字義と語義はその次元にある。目先の利害が絡むと真実に忠実でなくなる人達がいて、認識を変えて正当化してしまう。
 

興於詩 論語
泰伯第八
9
民可使由之

下村湖人による注釈

 
○ 本章は「由らしむべし、知らしむべからず」という言葉で広く流布され、秘密専制政治の代表的表現であるかの如く解釈されているが、これは原文の「可」「不可」を「可能」「不可能」の意味にとらないで、「命令」「禁止」の意味にとつたための誤りだと私は思う。第一、孔子ほど教えて倦まなかつた人が、民衆の知的理解を自ら進んで禁止しようとする道理はない。むしろ、知的理解を求めて容易に得られない現実を知り、それを歎きつつ、その体験に基いて、いよいよ徳治主義の信念を固めた言葉として受取るべきである。