原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人 要検討 |
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子曰 | 子曰く、 | 先師がいわれた。 |
作者 七人矣 |
作たつ者もの 七人しちにん。 |
「立ちあがったものが、 七人だ。」 |
○ 本章もこれだけでは何のことか全然わからない。前章と合して一章になつている本もあるので、おそらく「隱退者が七人になつた」という意味だろうと解釈されている。しかし、それにしてもどこの国の何人がその七人なのかはわからない。
【とあるが、これだけでは分からないというのは、一をもって二を求める態度(5-9:一以知十参照)。
詩歌性、即ち対句対照性を基調にする論語解釈においては、抽象的で端的な内容は、表面一義的ではなく、多義的な掛詞として同時多角的に、対照させて解すべきである。
そしてその解釈の際は、旧来の説を基準・前提にして想像を展開するのではなく、ごく一般的かつ自然な字義に即し、かつ前後総体の文脈を多角的に参照すべきである。
なおこのような理解は私の見る限り学説にもどこにも存在しないが、それは一つに詩歌的素養と学問的素養が一般に両立しないからと思う(古今仮名序で貫之曰く、古の事と歌の心をも知る者一人二人)。
下村注にある「隠遁者」は前章の賢者辟世を代入したものと解されるが、さらに次の石門の章と一体と見れば、孔一門(孔氏)となったものが7人。
さらに論語は必要に応じ説明を何度も繰り返しているから(14-45:修己以敬)、それと対極にある本章はこれ自体で意味をなしそれで十分であるもの、それ以上の言及は、論語の作者、即ち「子曰」と書いている者に意味がないものと解する。
つまり論語・孔子門の語録・見聞録を記す者が7人、僻地(前章の表現)に行く孔子にも付いて行った者が7人、と解する。その孔子門に引っ掛けて対比し、次章が石門。
以上独自】