原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 独自 |
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子曰 | 子曰く、 | 孔子曰く、 |
驥 不稱 其力 |
驥きは その力ちからを 称しようせず、 |
駿馬・俊才は その脚力・能力で 称えられるのではなく |
稱 其德 也 |
其その徳とくを 称しようする なり。 |
その着実堅実の利 (全く損しない貢献)を 称えられる のである(無事是名馬)】 |
以下、下村湖人の訳 | ||
×先師がいわれた。 「名馬が名馬といわれるのは、 その力のためではなく 調教が行き届いて 性質がよくなっている からだ。」 |
【※従来の訳は一致して「驥」を名馬、そこから「徳」を調教の意に解する。しかし特に「徳」につき、被調教(下村)・順良(穂積)・おとなしさ(魚返)という性質をもって、称えられるほどの名馬の性質とは言えないだろう。それは馬の一般的性質とも言える(馬は総じて犬より大人しいと私は思う)。
したがって「徳」が先天的でなく後から備わるという方向の議論は、調教論を正当化するもので的外れ。身に備わった品性というのが字義だから先天か後天かを論点にするのは違う。それは字義上どうでもいい。
名馬の条件はとにかく走り続けられること(すると走行距離が延びる。一般に「驥」は千里を走る名馬と説明されるが、千里とは「悪事千里を走る」という中国の諺のように国をまたぐ距離を表す、万里と同じ距離の象徴表現であるから、実際その距離を走ったと表現している訳ではない)。それなのに調教に応えるのが名馬とするのは本末転倒。今の趣味的馬術競技ならともかく、昔の戦争の時代の名馬で、調教(練習)して良しとなった訳ではないだろう。
「驥」は俊才としても用いる意義があり、文脈でも限定ない以上、本章の「驥」は人の才能に掛けたと見なければならない。また単騎というように人馬はよく一体とされる】