原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 要検討 |
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子曰 | 子曰く、 | 先師がいわれた。 |
古之學者 爲己 |
古いにしへの学者がくしやは 己おのれの為ためにし、 |
「×昔の人【古の学者】は 自分を伸ばすために学問をした。 |
今之學者 爲人 |
今いまの学者がくしやは 人ひとの為ためにす。 |
今の人は 人に見せるために学問をしている。」 |
【※上記の訳だと、今の方が「人の為に」しているから、そちらの方が良いと孔子は言っているのではないかと思う人が、特に本邦では少なからずいそうなので説明しておく。
本章は15-20の「子曰く、君子はこれをおのれに求め、小人はこれを人に求む」と対にすると誤解がないと思う。「これ」とは何事も(原因)の意味で、ここに学問研究が入ったのが本章。
君子と小人は、主体性の有無、流されない人と流される人の違いとも言える(13-23:君子は和して同せず、小人は同して和せず)。
またこれは「古・いにしえ」の根本的な理解にかかわるが、古は昔という意味ではなく、時代を超え、常に残り続ける永遠の存在(いにしえ=とこしえ=常世)。常にあり続けるから古を「先進」(11-1)とする。
今が「先進」で古は「後進」という見方は、古は最早存在しないと思う、まさに今的な刹那的な見方。
そして古来の学者は常に全員が世界的最先端で根本的に内発的探究心で研究してきており、誰かに言われてその意に沿うように学んでいる訳ではない、という趣旨。他人主体が悪いという訳ではないが、それは先進性・リーディング性・他人の顔色で左右されずかつ知覚できる先覚者とは違うということ。以上独自】