論語13-21 子曰 不得中行而与之 必也狂狷乎:原文対訳

今之従政者 論語
子路第十三
21
狂狷
南人有言
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
独自
子曰 子曰く、  孔子曰く、

得中行而
與之
中行ちうかうを得えて
之これに与くみ
せずんば、
中道の人を得て、
この人と共に
しないなら、
必也
狂狷乎
必かならずや
狂狷きやうけんか。
必ずや、
狂犬の如き者が寄ってくるだろう。
     
狂者
進取
狂者きやうしやは
進すゝんで取とり、
くるってる者は
我先にものを取り、
狷者

所不爲
狷者けんしやは
為なさざる所ところ
有ある
なり。
くるってなくても賢者でない者は、
何も盗らずともついてくる所が
ある
のだ。
    以下、下村湖人の訳
    先師がいわれた。
△「願わくば中道を歩む人と事を共にしたいが、
×それが出来なければ、狂熱狷介な人を求めたい。
狂熱的な人は志が高くて進取的であり、
狷介な人は節操が固くて断じて不善を為さないからだ。」

 
【一般の辞書では、「狂狷」について本章を出典にし、①「志が高く、意志の堅固なこと。並はずれて、自己を高く持すること」②「志高く、偏狭である」などと定義されるが、このような説が通るなら、どんな曲解でも通せる。

 ①は「狂」字義を完全に無視して曲げ、②はそれに加え、あべこべな理屈を素直に体現している。

 これらはいずれも本章を出典にしており、純粋に論語と本章の理解が筋違いでこうなっている。そもそも従来の訳の例を見て意味が通っているか。文意が支離滅裂ではないか。

 前々章では夷狄(自分達と異なる言葉の通じない生き物)にも敬意を払うのが仁とし、本章の表現はそれにかかわるが、敬意を膨らませて実質を無視するのは違う。これが書かれたのは紀元前で、日本には対外的に認知された国家体制は存在しない時代ということを留意しなければならない。

 孔子が「狂」「狷」(いぬ・けものへんの文字)を良い意味で使うことがありえるか。ありえない。しかも文脈で良い意味でしか通らないという必然がない。むしろ全く筋が通っていないではないか。道理を捻じ曲げてはならない。小牛と犬の仲を説いたならまだしも、道中の牛に寄ってくる犬は大概迷惑と思う。

 中道の人を得られない後で「狂」の字が出てくる。つまり前段は理想、後段は仲道を得られない時の反動のネガティブな両端を象徴的に説明したと見なければ通らない。

 なぜ字義に忠実に解さず、逆に全力で曲げそれが辞書に載ってしまうのか理解に苦しむが、この世は野蛮で、強盗致傷のない年はない現代以上に野蛮な時代の説明でも受け入れがたい人達、自分達人類は進んでいること以外受け入れない人も多くいるということだろう。しかし野蛮でないとは、野蛮を野蛮と認められる状態が前提と思うがどうか。そろそろ時代的に受け入れられるのではないか】
 

今之従政者 論語
子路第十三
21
狂狷
南人有言

下村湖人による注釈

 
○ 孔子は、無理想で、妥協的で、沈香も焚かず屁もひらないような、いいかげんな人が、いかにも中道を歩んでいるかのような顔をしているのに一撃を加えたのであろう。