論語20-3 孔子曰 不知命 無以為君子也:原文対訳

五美四悪 論語
堯曰第二十
3
不知
論語終  
原文 書き下し
漢文叢書
現代語訳
下村湖人
要検討
子曰 子曰く、  先師がいわれた。
不知
命めいを
知しらざれば、
「天命を
知らないでは
無以
爲君子
以もつて
君子くんしたる
無きなり、
君子たる資格が
ない。
不知
礼れいを
知しらざれば、
礼を
知らないでは
無以
立也
以もつて立たつ
無きなり、
世に立つことが
出来ない。
不知
言げんを
知しらざれば、
言葉を
知らないでは
無以
知人也
以もつて
人ひとを知しる
無きなり。
人を知ることが
出来ない。」
五美四悪 論語
堯曰第二十
3
不知
論語終  

  

下村湖人による注釈+【当サイト注】

 
○ 「天命を知る」というのは、境遇の順逆にとらわれず、安んじて為すべきを為し、為すべからざるを為さないという、人間としての根本の立脚地を指したものであり、そして、礼を知るというのは、社会人としての具体的な起居動作についていつたものであり、「言葉を知る」というのは、正言、虚言、僞言等を正しく判別し、言葉に欺かれない用意があつて、はじめて人間の価値判断を適正ならしめ、為政者として誤りのない人事を行うことが出来る、ということをいつたものであろう。

○ 「君子」という言葉は「天命」に関してだけ用いられているが他の二つの場合にも共通するものと見るべきであろう。


【最後に、下村氏が天命について定義をしている点について述べる。論語の最後が天命についてというのも感慨深い。

 

 16-8(孔子曰 君子有三畏 畏天命~小人不知天命)の訳で下村氏は「小人は天命を感知しない」とし、この「小人」は論語で何度も君子と対にして論じられてそれは非君子(志の低い人、為政に関わってはいけない人)という意味で用いられる。

 そして本章「不知命」を下村氏は「天命を知らないでは」と理解し、それを「君子たる資格」としているから、この一連の論理の流れからして下村氏が「天命を感知し」て説明できるなら「君子たる資格」があることになるが、彼は19-8「子夏曰く、小人の過ちや、必ず文(かざる)」の注釈で「この言葉は痛い。論語の中でも最も痛い言葉の一つである。」として子夏の言葉とはいえ小人への戒めが最も刺さることに自覚的であるから、本来の天命の説明(君子たる資格)の説明としてはギャップがあると言わざるをえない。

 

 そして私は、彼の天命の説明は、一般の道徳訓としてはありえても、天子・君子の資格を根拠づける説明としては、いささか小さくまとまったものと思う。

 天命は、本来は天子思想の大前提で、端的に天から命と共に下された高次のオーダー・ミッション・天啓・人生に与えられた使命、当該人生でなすべき最大の最優先事項である。それは全知全能の天道(オールマイティー)の意志により、それが人社会の道徳認識の進歩にかなうものであっても、それによってなすべきか・なさざるべきかが定義されるものではない。人類社会が天上の如く理想化されたらそのような情況に至るが、至る所で民が苦しんで生きることが地獄と思う人も少なからずいる現状でそのようなことは、最低でもまだ数百年単位でないだろう。

 ただ天命は各々の最善の霊的美化発展と霊的な罪(カルマ・不義・ルール違反)の償いのために下される。法の無知は故意を阻却しないという格言もあるように、法を知らなければならない。しかし人の明文でもない高次の法を正確に理解するのには、高度の理解力(宇宙や遺伝子の作用を普通認識できないように)が必要なのであった。よって信仰が強い文化圏では不文律がルールとして効力を持つ。ルールは法則、ルーラーは立法者で支配者。高次の法(摂理)の立法者は人ではない、人の立法はそれに近づけるもので、普遍の摂理(天意)に反してはならないというのが近代法の不文律、ルールオブロー(法の支配。not人の支配)の精神である】