論語3-23 子語魯大師樂:原文対訳と解説

管仲之器 論語
八佾第三
23
魯大師楽
木鐸
原文 書き下し 現代語訳
下村湖人+【独自】
子語
魯大師
樂曰
子し
魯ろの大師たいしに
楽がくを語かたりて曰く、
 先師が
魯の【高僧】楽がく長
音楽について語られた。
    【通説は「大師」で楽長とするが字義でも文脈でも無理。
門外漢が楽長に音楽を説くなどありえないほど無礼(素人的)なのは自明。
しかしそう思えるのは音楽の素人的な人達が解釈してるからと思う】
樂其
可知也
楽がくは其それ
知しる可べきなり。
【(あなたは経文の前に)音楽のイロハを
知るべきである。
始作 始はじめ作おこす 始めは
翕如也 翕如きふじよたり。 起(翕:起こる)
從之 之れを從はなつ 次に
純如也 純如じゆんじよたり、 承(純:専ら・広がる)
皦如也 皦如けふじよたり、 転(皦:輝く・純白=サビ・転調)
繹如也 繹如えきじよたり、 結(繹:引く・抜く)
以成 以て成なる。 これにて成る。
    cf.ソナタ形式(序・提示・展開・再現終)
管仲之器 論語
八佾第三
23
魯大師楽
木鐸

下村湖人による注釈

 

○本節の原文は、翕如(きゆうじよ)、純如(じゆんじよ)、皦如(きようじよ)、繹如(えきじよ)、といつたような形容詞をならべたに過ぎない、極めて簡潔なものだが、それを直訳的に邦語にうつしても意味が通らないので、思いきつて言葉を補足することにし、拙著「論語物語」中の「楽長と孔子の眼」に書いたのをほとんどそのまま引用した。

 

【として下村湖人は以下のように訳すが、意味が通らないと思うのは音楽経験がないからで、詩歌を専ら文章的・念仏的に捉えているからと思う。本章は説教が退屈な僧侶に戦慄(3-21)ならぬ旋律の心得を説いたものと解する。しかし素養がない人には以下のように捉えられるので、孔子の説明は意味がなかったかもしれない。イロハの体感がない人に基本理論を説くようなもの】

 

「およそ音楽の世界は一如の世界だ。そこにはいささかの対立もない。先ず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、更に楽手と聴衆とが一如になって、翕如きゅうじょとして一つの機をねらう。これが未発の音楽だ。
この翕如たる一如の世界が、機熟しておのずから振動をはじめると、純如じゅんじょとして濁りのない音波が人々の耳を打つ。その音はただ一つである。ただ一つではあるが、その中には金音もあり、石音もあり、それぞれに独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。
皦如きょうじょとして独自を守りつつ、しかもただ一つの音の流れに没入するのだ。
こうして時がたつにつれ、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫のすきもなく、繹如えきじょとしてつづいて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。
まことの音楽というものは、こうして始まり、こうして終るものだ。」