論語の原文対訳。
原文と訓読文(書き下し文・読み下し文)は漢文叢書。
現代語訳は青空文庫『現代語訳論語』(下村湖人)。
下村湖人(1884-1955,本名:下村 虎六郎)は教育者兼小説家。熊本五高→東京帝大英文科→教師として佐賀中、唐津中、台中一中、旧制台北高校長など歴任。
訳出・解釈の仕方は、流布する訳の中では原文に忠実であるが、原文が抽象的で一般に難解な部分になると来歴のように権威的教育色が強く出るために、特に問題ある箇所は【】で独自部分を明示し改めた。
なお、下村訳で「先師」「先生」とだけいう時、孔子のこと。
論語は二十篇からなり、大方「子曰く」まれに「孔子曰く」から始まる孔子の語録。
「子曰」で占められる篇もあるが(里仁第四の25/26が96%、次が衛霊公第十五の35/41の85%)、そうした構成は少数で、孔子の弟子の教訓的発言が入り混じる巻がむしろ多い。
この点を踏まえ、論語読解の際はまず孔子の言葉であるかを意識して見ると良いと思う。弟子の言葉は孔子と対比され一般人寄りの見解と見た方が良い。先師ほど隙がないなら、プラトンのようにソクラテスと並び名を残すのが道理だが、孔子の弟子達には孔子と並ぶほどの知名度はないだろう。
たまに誰が言ったともない章もあるが、それは全体から見て、孔子(紀元前500頃)よりさらに古来の孔子の意を表した内容と見て良い(独自)。誰が言ったかわからない(しかし世に残すべき内容だ)から誰とも書いてない。
論語の内容・大意は、君子論かつ統治論で、孔子の代名詞、仁という概念も全てそのためで、宙に浮いた個人的特性を言ったのではない。先頭の学習を言ったのも為政・善政のため、世の為人の為に励む、それが仁性。世のため人のため真摯に取り組むと口先で言っても、人として未熟なら専ら利己に励むのが道理で、それ以外に為しようがない。それは未熟な子供に世の中のために動くべしと言っても、根本的に理解できず、少し進むと格好つけの方便と受け取ることと同じ。
第一に学、第二に為政が来るのは、学問の素養なければ善政はなしえない(里仁も解せず、仁に乏しく、必然悪政に帰す)ことの象徴表現(独自だが、日本の元老政治家の学問素養の類型的欠落を見れば、その底の知れた思考様式のもたらす害の底知れなさは明らかと思う)。
元来が予備門(予備校)では推して知るべしで、世の認識も就職予備校。それ以上の学は役に立たないとみなす世界的に学問的に未熟な社会。入れさえすれば何でもよく、高次の思考様式を身に付けるなど全く関係ない。それで政治でも上に行くほど人を小ばかにした態度がはびこる。有無を言わさず叩き込まれるほど学問的でなくなることも上ほど学問的素養を欠くため分からない。文系修士博士は英米では理系と半々でも日本では視認できない。賢者の成功と愚者の成功、どちらをとるかといったら前者を鼻で笑って後者に走り、その狭い社会で自分達は前者で成功者と思う。愚者は富を占有したがる。
続く「八佾」は天子の舞の配置も、続く「里仁」の常に仁(人間性)に立ち返るという意味(独自)も、上辺の方便以外にそれらには何の意味もない。
以下、論語の各章を一覧化して、キーワードを独自に付し、重要度に応じ星を付した。
キーワードは、原文に即したもので、各章を象徴し・大意を表し・最重要語句と判断したものを、そのまま抜粋あるいは原文の対句部分を結合させ成句にしたもの。
重要度は、第一に論語の成句として際立って知られているもの(★★)。第二に特有で有名な成句・熟語・道徳的用語(★)、第三は世に流布する一般的な単語の由来を示すもの(☆)。
解説で一般に有名と説明されても、古典の専門教育を全く受けていない私が生きてきて全く見聞きした記憶がない(それなりに教養ある一般人の認識では淘汰された)用語には星をつけていない。
私の中で最も重要と思う概念は、天にまつわる統治の概念として北辰と南面(2-1、6-1)を挙げたい。この点、天子の座の南面が北辰(北極星)と対にして理解されていないことが問題。孔子特有、即ち儒学の中核概念とされる「仁」は、人に掛けられた、いわば地の概念。というのは独自の理解だが、論語で「仁」は度々同音に掛けて説明され、人の尽と見て良い。孔子より約1600年後の宋代儒学の「人事を尽くして天命を待つ」という諺もその表れ。なおこれは「小人は天命を知らない(=認知しない=認めない=感知できない)」とされた章(16-8:小人不知天命)を前提にしたものと解すのが当然。これも独自。
加えて、馬屋が焼けても馬を問わなかった話(10-12:不問馬)と、小利を見ない(13-17:無見小利 )とした話。論語で馬は財産と同義(5-19:未知)。
一般に論語の各話は「章」、それらを束ねる「学而第一」のようなまとまりは「篇」とされ、さらに一般に全く重視されていないが二篇対で「巻」となり、全二十篇で全十巻となる。
孔子は息子に対し、古の詩を学んだかということ位しか言わなかったという章が複数存在し(16-13:君子之遠其子、17-10:周南召南)、そのように孔子は度々詩の重要性を説いている(参照内容自体が対句)。そしてこの点も、一般に全く認知も理解もされていないが、論語の孔子の言は簡にして素、それは簡単という意味ではなく、即ち含みがあるところ、訳者達はそれをこれだけでは意味がとれないからと、一つの文言を超えて自分達の感性で自在に補い膨らませるが、それは漢文に限らず古典の間違った解釈態度であって、解釈が何なのかをそもそも理解していない。
解釈は、どこまでも一般的な字義に基づかねばならず、字義を左右しそこでしか通じない用法を定義してはならない(結局、表現自体おかしくなる)。それを言葉を曲げる解釈で曲解という。多義的に意味を連関させた掛詞性に基づかないと古典の意味はとれず、その手掛かり(文字と語義に注目)として、対句の理解が重要になるのである。対句は平家物語の特徴ではない。全ての古典の命。そう思えないのはガリ勉的に目先の字面を注視していて、読解できてないから。
論語で恐らく最も出てくる対句が「君子」と「小人」でこの対比を無関係に解すのは違う。それは「君子」でなくても同様。自分達が知らなければ存在しないのではない。
そして「君子」と明らかに対となる「女子(と小人)」(17-25:女子与小人)が、論語で一度だけ出てその解釈が議論されてきた。即ち、両者は養い難し(子曰 唯女子與小人爲難養也)とされた文脈から、「女子と小人)」はいずれも両性の奴隷、あるいは道徳的に劣った「小人」と並べる女性一般と解され、「女子」への侮辱として非難されてきたというが、これは論者達本位の感性に基づく、全く筋違いの非難と言わざるをえない。
そもそも論語で「女」は、面前の弟子への親しみを込めた汝の意味で何度も用いられるところ、なぜ一回だけの「女子」が女性一般あるいは女奴隷になるか。理・論理に反す。したがって論者達にこそ、自分達が非難する世の常の父権時代の見方が染みついていたために、このような捉え方をしたと言わざるをえない。
「小人」は「君子」と対で志の低い者(独自。道徳的に劣った奴隷等は字義を無視した恣意的解釈)という意味を持ちこそすれ、「女子」が先に来て対になる時は、「小人」は「女子」に沿った文脈に限定される。それが文脈に即した解釈。女子が先で、小人が先なのではないから。そして女子は君子より劣るとするのはこれを逆転させた背理。女子と君子は字義上完全に並列で対等である。そうでない意味を見るならそれは偏見に基づく。
論語の文脈では、特定の近しい「女」(汝・お前)と親しみを込めた表現が「女子」。そして「小人」と並び「難養」とあることから、夫が養うものと伝統的にみなされる妻子と解するのが筋。それなのになぜいきなり第三者の奴隷や女性一般になるか。具体的文脈に根拠がない。意味が一義的なら一々解釈する必要もなく、そもそも「解釈」の理解が唯我独尊的なところに根本的な読解の病理がある。
そして「子曰 唯女子與小人爲難養也(女子と小人は養い難い)」の後に続くのは、「近之則不逊、遠之則怨」(近づくと不遜=謙虚にならなくなり、これ(多義的)を遠ざけると怨む)であるところ、後段で遠近の主語は示しておらず、直近に孔子が息子を遠ざけた話もあり(上記16-13:君子之遠其子)、文字でも順序でも完全に本章とパラレルになってリンクしているから、本章後段は孔子と女子と小人を一まとめにした表現と解さなければならない。しかし一般にそれは漠然と女子と小人の説明とされ、孔子の自戒(12-1:克己参照)も含むとは論者は全く思わない。そして次章で主語を示さず四十で憎まれたら終り(年四十而見惡焉其終也已)とあっても、それは単なる一般論と見て前章と関連づけて見ない。
文脈とはどういうことか。これが自分達本位の読解・女子を軽んじて見る人達の解釈でなく何か。
古典は対句・対の配置に基づき文脈に多角的根拠を持たせて解さなければならない。対の配置とは、目先だけではなく、大きな次元の対で高次・大局の意味。それが必ず二篇で一対(一巻)にされることに象徴的に表されている。高次の意味とは、例えば、「女子と小人」はともに奴隷で近づけるとのさばる(下村訳)というような低俗な意味ではないこと。それに奴隷はそういう態度を類型的にとっていたのかも疑問。しかし戦前日本で使用人がいない家の女子はそう扱われていたと言っても体感上何の疑問もない。2024年でも妻に介護要員を求める話も聞く。それは2000年以降の先進国的な感覚に照らせば、それ以上近寄りたくない未開社会性を象徴しているだろう。女子と小人に奴隷という意義があった、ではない。今も昔も、女子と子供を奴隷のように見る多くの人々の感性がないとそのような意味は生じない。
論語の解釈は、学者・教育者・各自の孔子像に照らし膨らませるのではなく、どこまでも、論語の文脈(対句性)と字義とに忠実に、多角的に解釈しなければならない。しかし現状はそうなっていない。表面的には真っ当そうで根底では受け売り・追従的・無秩序なことが、国の現状に表わされていると思う。国としたが、これは作法上一般化したに過ぎないので多面的に考えて欲しい。問題なく通る所は問題なくても、文言から遊離した部分は原文に即した理解に改められなければならない。それが各人の思想の問題ならともかく、これが孔子の思想だろうと説明するのが習わしであるから。