原文 (実践女子大本) |
現代語訳 (渋谷栄一) 〈適宜当サイトで改め〉 |
注釈 【渋谷栄一】 〈適宜当サイトで補注〉 |
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六月ばかり、 | 六月ころに、 | |
撫子の花を見て、 | 〈燃えるような純粋な愛を象徴する〉撫子の花を見て、 |
〈撫子を撫でし子と見立て娘の賢子(大弐三位)と見るのが通説だが、そのような明示的な文脈(かのなでしこの生ひ立つありさま:源氏夕顔)はない上に、諸説は娘を和歌の解釈に通るように反映できない。そもそも式部集で娘は53で「幼き人」と一度あったのみで重要ではない。つまり上記通説は文脈に根拠がない暗記主義的代入で誤り。 ここでは大和撫子のように女性の一般的象徴と見る。女郎花は男目線で、撫子もそういう意味に見る余地がある。 花言葉は、純愛・貞節・無邪気。赤い撫子は純粋で燃えるような愛。常夏からこちらを取る〉 |
垣ほ荒れ | 垣根〈ウチ〉は荒れて | 〈垣:家のことでウチ・自分。独自。家は自分自身を象徴。よってお宅・うちはという〉 |
寂しさまさる | 寂しさがまさる |
【垣ほ荒れ寂しさまさる】-夫宣孝の死後をいう。 〈これが92からの通説解釈だが、垣が荒れたのは夫がないからとしても、親ほどの夫の死後若い美男子の物語を延々書いた女性が亡き高齢夫で寂しさまさる理由がない。それは論者の家父長的結婚観。これがジェンダーギャップ世界最〇水準の国。前後はミャンマー・ヨルダン・日本・モルディブ・インド。死後とか存命とか議論を派生させてもそもそもが見当違いの砂上の楼閣〉 |
常夏に | 常夏〈の撫子の女盛り〉に |
【常夏】-娘の賢子を暗喩。 〈常夏は撫子の別名。ここでは女盛りと見る(76女郎花と相まり)。娘とする必然は文脈にない。だから「常」に男女の床を掛け「夫婦関係を含意」(新大系)とする説もあるが夫婦という必然がない。そこで「病気をして心細い」(集成)説もあるが、季節の内容でも通るのに病気と限定する根拠に乏しい。なぜ皆すぐ文脈に根拠なく想像を展開するか。それで全体通る訳でもない〉 |
露置き添はむ | 露〈涙が〉が置き加わる |
【置き添はむ】-「をく」は定家の仮名遣い。 〈露は涙。続く96花薄葉にもある。76女郎花・77白露はも同様に式部の涙。通説はこの露を道長の恩恵とするが字義を無視して場当たり過ぎる。これが現状の解釈水準〉 |
秋までは見じ | 〈体のほてりがおさまり寂しさまぎれる日は〉秋までは見ることができないでしょう |
【秋までは見じ】-作者病気中の折、生きていられないでしょう、の意。 〈じ:打消推量、打消遺志。…ない、…ないだろう、…まい。 つまり体のほてりがおさまらない(以上全て独自)。更年期か。撫子の花なのでそうではない。 ここでも秋に飽きを掛けたという説(新大系)があるが、暗記以外の何物でもない。もしや学生が担当したのだろうか。 |
参考: 新大系「訪う人もなく、垣根も荒れてさびしさつのる常夏の花に、冷たい露の置き添う秋までは見たくない」→これで意味が通るのだろうか? 集成「夫が亡くなり、垣が荒れてさびしさのつのっているわが家の撫子に、秋には涙をそそる露が更に加わるであろうが、そんな秋までは私は生きて見ることはないであろう」→夫から始めること自体想像。想像(垣)に想像(撫子)を重ね家族全体の悲劇に仕立てるが、最後の病も必然なく唐突過ぎる。つまり総じて文言から離れた想像。解釈理論が粗末で根本的に誤っているから、同じものを見て両者全くバラバラになる。
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