第一部 若かりし頃 |
第二部 近江・越前 |
第三部 言い寄る夫 |
第四部 夫の死 |
第五部 転機 |
第六部 初々し出仕 |
第七部 栄花と追憶 |
第八部 月影の人 |
第九部 宮中と女房 |
第十部 天の川の人 |
第十一部 終の予感 |
※項目立ては独自
詳解 定家本 |
和歌 | 人物 |
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1 |
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜はの月かげ |
紫式部 |
2 |
鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや 悲しかるらむ |
紫式部 |
3 |
露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ |
紫式部 |
4 |
おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの そらおぼれする 朝顔の花 |
紫式部 |
5 |
いづれぞと 色分くほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしき |
方違へに渡りたる人 |
6 |
西の海を 思ひやりつつ 月見れば ただに泣かるる ころにもあるかな |
筑紫へ行く人の娘 |
7 |
西へ行く 月の便りに たまづさの かき絶えめやは 雲のかよひぢ |
紫式部 |
8 |
露深く 奥山里の もみぢ葉に かよへる袖の 色を見せばや |
思ひわづらふ人 |
9 |
嵐吹く 遠山里の もみぢ葉は 露もとまらむ ことのかたさよ |
紫式部 |
10 |
もみぢ葉を 誘ふ嵐は 早けれど 木の下ならで 行く心かは |
思ひわづらふ人 |
11 |
霜氷り 閉ぢたるころの 水茎は えも書きやらぬ 心地のみして |
もの思ひわづらふ人 |
12 |
行かずとも なほ書きつめよ 霜氷り 水の上にて 思ひ流さむ |
紫式部 |
13 |
ほととぎす 声待つほどは 片岡の 森の雫に 立ちや濡れまし |
紫式部 |
14 |
祓へどの 神のかざりの みてぐらに うたてもまがふ 耳はさみかな |
紫式部 |
15 |
北へ行く 雁の翼に 言伝てよ 雲の上がきかき 絶えずして |
紫式部 |
16 |
行きめぐり 誰れも都に 鹿蒜山 五幡と聞く ほどのはるけさ |
西の海の人 |
17 |
難波潟 群れたる 鳥のもろともに 立ち居るものと 思はましかば |
津の国の人 |
欠 |
(二行 空白) |
紫式部 |
18 |
あひ見むと 思ふ心は 松浦なる 鏡の神や 空に見るらむ |
紫式部 |
19 |
行きめぐり 逢ふを松浦の 鏡には 誰れをかけつつ 祈るとか知る |
筑紫の肥前の人 |
1と19が「めぐり逢」で対になり、かつ19と16が「行きめぐり」で対になるから、これらの歌は一体のものと解すべきである(独自)。これで偶然で別々と言う方が不合理極まりない。このような俯瞰的配置からの高次の解釈は皆無で、自分でいうのも何だが今の理論レベルからすると革命的読解と思う。当然のことと思われても困るので。これが貫之の言う古の事と歌の心を知る者は一人二人という訳。
そしてこの人(1番の「はやうよりわらは友だちなりし人」)は通説のように女友達などではなく筒井筒のような男女の幼馴染と解する。それが紫式部といえばという歌風(恋歌離別哀傷)と、男女離別の源氏先頭歌とも合致する上に、「月影」は源氏物語で源氏の意味で用いられており、1番は総体的に全て男女の歌という根拠しかない。「ほのかにて」もほのかに淡い恋心を抱いた(ときめいた)こと以外なく、僅かな時間で慌ただしくよく見れなかったとアクロバティックに議論する必要がない。「友だち」三文字で同性とは貫之が女を装ったレベルの思い込み。
単体の「人」は基本男(man)。女性は君・娘(女)と明示するのが古来の基本セオリー。それを覆すには強力な文脈を要するがそれがない。紫式部が日記で多用する「人々(They)」は包括的表現だが、だからといって一人の性を区別しない訳ではない。学説はこの「人々」を装飾など必然がない場合でも安易に女房と限定するが、ここでの「人」の女性限定はそれ以上に根拠がない思い込みによる循環論法(学説マッチポンプ)。だからこの「人」は誰かと議論している。