原文 (黒川本) |
現代語訳 (渋谷栄一) 〈適宜当サイトで改め〉 |
注釈 【渋谷栄一】 〈適宜当サイトで補注〉 |
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九日の夜は、 | 九日目の夜は、 | |
春宮権大夫 仕うまつりたまふ。 |
春宮権大夫が 御産養を奉仕なさる。 |
【春宮権大夫〈とうぐう の ごん の だいぶ〉】-藤原頼通。中宮の同母弟。十七歳。前出「殿の三位の君」の私的呼称に対して、ここでは公的呼称で記す。 |
〈前出文脈では頼道を「幼しと人のあなづりきこゆる」とあり、ここでもその趣旨で儀式の様子が描かれる。しかし学説にその視点はないどころか、批判的な式部が光源氏になぞらえたというような野放図な礼賛一辺倒に走るが、それらは語句の理解が悉く礼賛前提で一方的で、要所に前提として置くきつい批判を気まぐれとみなし直ちに全力礼賛に回帰する点で、根本の読解態度が問題。本段末尾も参照〉 | ||
白き御厨子 一よろひに、 まゐり据ゑたり。 |
白い御厨子 一具に お祝の品々が 載せてあった。 |
〈御厨子(み づし):仏像や巻物を入れておく両開き扉の収納具〉 |
儀式 いと さま ことに 今めかし。 |
その儀式は 〈とても 様子が 殊更で、今までと異なり〉 今風である。 |
×まことに格別で(渋谷) △たいそう変わっていて(全集) △(作法が)とても変わっていて(集成・全注釈) |
〈「ことに」につき学説は特に説明しないが、これは①ことに(殊に)、②様子を異にという掛詞と解する。独自。 また、「今めかし」は、古を重んじる式部には幼稚・あからさまと事実上同義同義で褒め言葉では全くない。その認識が一般にないのは、一つに学者も古と今は対義概念でむしろ今が優れていると思っているから。古は昔ではない。古は永遠。遥か彼方で永続する普遍遍在、ユニバーサリティー。これには高次の時空間の理解を要す。たから古の人は、昔の人ではない〉 |
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2 |
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白銀の御衣筥、 | 白銀の御衣筥は、 | |
海賦を うち出でて、 |
海の模様を うち出してあり、 |
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蓬莱など 例のことなれど、 |
蓬莱山の図柄などは 常のことであるが、 |
〈上記のユニバーサル性。だからそれはいいとして、の意〉 |
今めかしう こまかに をかしきを、 |
今風で 〈いちいちこまごまと おかしなのを〉、 |
×今風で精巧にできており興趣あるが(渋谷・全集・全注釈同旨) ×新味があり精巧で素晴らしいのを(集成) 〈「こまかに」は本日記では、一々=何につけても(おかしい)の意味で用いられており(顏のうち赤みたまへるなど、こまかにをかしう)、また渋谷訳がそれを別に補うようにその意味で通り、通説の精巧解釈は不適当〉 |
取りはなちては、 |
一つひとつ 取り上げては、 |
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まねび 尽くすべき にもあらぬこそ 悪ろけれ。 |
〈そのまま表し 尽くせるべく もないことは 残念なことよ〉 |
△言葉で言い表せないのが残念なことだ。 〈わろし:美しくない・みっともない・下手だ けり:詠嘆。三位の君の段での「人のあなづりきこゆるこそ悪しけれ」と対比され、これは一々口にしたくない、口に出して説明できるほどなら良いのにと見る〉 |
3 |
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今宵は、 | 今夜は、 | |
おもて 朽木形の几帳、 例のさまにて、 |
表面に 朽木形の模様のある几帳を 普段と同じようにして、 〈いるのにそれでも〉 |
〈くちきがた(朽木形):朽木模様というモザイク調の模様〉 |
人びとは 濃きうち物を 上に着たり。 |
女房たちは 濃い紅の打衣を 上に着ている。 |
〈濃きうち物を上に着:これは宰相の君の昼寝描写にも同じものがあり(濃きが打ち目、心ことなるを上に着て)、そこでの「心ことなる」がない本段は、若者の典型的な流行のこれみよがしな服装ということを言っている〉 |
めづらしくて、 心にくく なまめいて 見ゆ。 |
目新しくて、 〈あからさまに見せつけ 誘っているように 見える〉 |
×奥ゆかしく優美に見える。 〈こころにくし (心憎し):奥ゆかしい、上品で美しいと丸めるのが通説定義。しかしこの語の本質は、良いね~羨ましいね~と言いながらの、対象のあらかさまさに対する皮肉・からかいで、それが血の通った普遍的理解かつ、まさに京女特有の皮肉の特徴。そういう経験が無いか乏しい学者達が褒めているようで実は馬鹿にし・されているという逆説を解せていない。中世以後気がかり、怪しいの意味が出てくるというのは、受け手や読者の素朴な感覚を反映したものと解する。 なまめかし:これも宰相の君の段にあり(いとらうたげになまめかし)、通説はこころにくしと同様、若々しい・優美・色っぽいと純粋な意味で定義するが、これは女が自然に(本性で)する心憎い装い(なま+めかし)と解する。以上当然全て独自だが、字義語義と文脈に完璧に即しきった革命的解釈と自負している〉 |
4 |
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透きたる 唐衣どもに、 |
透けて見える 唐衣などの下から、 |
〈上記のなまめかしい意味の文脈。最後の「こまのおもと事件参照〉 |
つやつやと おしわたして 見えたる、 |
打衣がつややかに 一面に 見えるが、 |
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また人の姿も さやかにぞ 見えなされける。 |
また女房たちの〈姿形・体の形〉も はっきりと 見られるのであった。 |
×姿の個性 〈学説はそう解さないのは、すべてあからさまな今的な理解の限界で、これは衣の上から体の線が透けてはっきり見える様子。この表現が色本としての源氏物語の著者の真骨頂〉 |
5 |
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こまのおもと といふ人の 恥 見はべりし 夜なり。 |
こまのおもと という人が 〈恥ずかしい目に にあわれた=辱めにあった(独自)〉 夜である。 |
×宴席で恥をかいた夜である 【こまのおもと】-益田勝実は采女の少(こま)高嶋とし、『全注釈』『集成』でもこの説〈『小右記』でその者が酔談を強いられたという〉を支持、『新大系』は〈この説を無理があるとし〉前出の「小馬」か、『新編全集』『学術文庫』は采女に「おもと」の敬称を付けることに疑問を呈し、また「小馬」でもなく未詳とする〈全集は別人と断定〉。 |
〈しかしそもそも『小右記』説はそのエピソードありきで、「少」をこまと読むのも無理な上に、食い違いを著者の思い違いとするのも、学説の傲慢で不適当。「播磨守」のような客観的経歴の問題ではなく「恥」の解釈が前提にあるから、それを学者の目線で決めてしかも他文献からこの人と決めるのは本文読解の態度ではない〉 |
ここで珍しく学説が争うが、その内容も純粋な本文解釈ではなく他文献による人定議論であるから、現状古文の解説は本質が文献学なのだろう(解釈も)。
「こま」は前に出て来た「小馬」と別に解する積極的理由が全くないので、新大系で妥当。むしろ後述のようにその必然がある。
しかし新大系も「「恥」の内容はわからない」とし、学説は恐らく『小右記』の目見にひきずられ宴席と限定し酔談強要説を前提にするようだが、酔った男を相手することは「恥」なのか。であればその情況の「めづらしき光」の歌は「恥」だろう。なぜそちらはそう見ない。しかもそこにあった「女房、盃」のような強要(類型的なハラスメント)の文脈はここにはない。したがって「宴席で」の恥という学説の限定は、本文中に根拠がない恣意的な限定で不適当。
「恥(見はべりし)」は、幼い(若い)男女にまつわる一連の文脈から、辱めにあったこと、体目的で襲われたことと解する。「透きたる唐衣に、つやつやとおしわたして見えたる」は、それをほのめかした暗示(そんなに見せていいのかな、夜這いある世では心配)と解する。これだけでも学説風の文言を曲げる推測ではないといえるし(学説の見立ては文言を曲げて補わないと通らないが、こちらは曲げる必要も補う必要もない)、さらなる著者本人の記述にも多角的根拠がある。
ここで「小馬の君」について更なる紫式部の説明を消息文から引用しよう。
小馬といふ人、 髪いと長くはべりし。 むかしはよき若人、 今は琴柱に膠(にかわ)さすやうにてこそ、 里居してはべるなれ。 |
小馬の君という人は、 髪がとても長うございました。 昔は美しい若い女房でしたが、 今では琴柱にを膠で固めたように、 〈ガチガチに身を固めて動かないように〉 里に引きこもっているようです。 |
※髪が長かった・むかしは良き若人、今はそうでないというよく分からなくした説明は、劇的な転換点があって、尼的情況になったことを示唆している。