源氏物語 梅枝 原文全文

真木柱 源氏物語
源氏全文
32帖
梅枝
藤裏葉

 
 冒頭「御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず」から始まる源氏物語・梅枝(うめがえ)の原文。要所で原文対訳に通じさせた。
 

源氏物語
原文目次
本巻冒頭、他巻へのジャンプにご活用下さい
1
桐壺
2
帚木
3
空蝉
4
夕顔
5
若紫
6
末摘花
7
紅葉賀
8
花宴
9
10
賢木
11
花散里
12
須磨
13
明石
14
澪標
15
蓬生
16
関屋
17
絵合
18
松風
19
薄雲
20
朝顔
21
乙女
22
玉鬘
23
初音
24
胡蝶
25
26
常夏
27
篝火
28
野分
29
行幸
30
藤袴
31
真木柱
32
梅枝
33
藤裏葉
34
若菜上
35
若菜下
36
柏木
37
横笛
38
鈴虫
39
夕霧
40
御法
41
42
匂兵部卿
43
紅梅
44
竹河
45
橋姫
46
椎本
47
総角
48
早蕨
49
宿木
50
東屋
51
浮舟
52
蜻蛉
53
手習
54
夢浮橋
           

 
※以上全て定家本系。
 重視される順に、定家(自筆)本明融(臨模)本、大島本。

 詳しくは、上位ページの源氏物語・写本理論の概要を参照。

 

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32 梅枝(大島本)

 
 
 →【あらすじ・原文対訳】《和歌抜粋・内訳

 
 【32-1-1

 御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。

 正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、

 「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」

 とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。

 香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。

 「二種づつ合はせさせたまへ」

 と、聞こえさせたまへり。贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。

 大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。

 上は、東の中の放出に、御しつらひことに深うしなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、

 「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」

 と大臣のたまふ。人の御親げなき御あらそひ心なり。

 いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壺の御筥どものやう、壺の姿、火取りの心ばへも、目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入れむと思すなりけり。


 【32-1-2

 二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、聞こしめすこともあれば、

 「いかなる御消息のすすみ参れるにか」

 とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、

 「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」

 とて、御文は引き隠したまひつ。

 沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。

 「艶あるもののさまかな」

 とて、御目止めたまへるに、

 「花の香は散りにし枝にとまらねど

 うつらむ袖に浅くしまめや」

 ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。

 宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。

 宮、

 「うちのこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」

 と恨みて、いとゆかしと思したり。

 「何ごとかはべらむ。隈々しく思したるこそ、苦しけれ」

 とて、御硯のついでに、

 「花の枝にいとど心をしむるかな

 人のとがめむ香をばつつめど」

 とやありつらむ。

 「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」

 など、聞こえたまふ。

 「あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり」

 と、ことわり申したまふ。


 【32-1-3

 このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、

 「この夕暮れのしめりにこころみむ」

 と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。

 「これ分かせたまへ。誰れにか見せむ」

 と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。

 「知る人にもあらずや」

 と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。

 右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。宮、

 「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。いと煙たしや」

 と、悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。

 さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。

 対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。

 「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」

 とめでたまふ。

 夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。

 冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、

 「心ぎたなき判者なめり」

 と聞こえたまふ。


 【32-1-4

 月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。

 蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。

 内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。

 宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将、横笛吹きたまふ。折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。童にて、韻塞ぎの折、「高砂」謡ひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。

 御土器参るに、宮、

 「鴬の声にやいとどあくがれむ

 心しめつる花のあたりに

 千代も経ぬべし」

 と聞こえたまへば、

 「色も香もうつるばかりにこの春は

 花咲く宿をかれずもあらなむ」

 頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。

 「鴬のねぐらの枝もなびくまで

 なほ吹きとほせ夜半の笛竹」

 宰相中将、

 「心ありて風の避くめる花の木に

 とりあへぬまで吹きや寄るべき

 情けなく」

 と、皆うち笑ひたまふ。弁少将、

 「霞だに月と花とを隔てずは

 ねぐらの鳥もほころびなまし」

 まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壺添へて、御車にたてまつらせたまふ。宮、

 「花の香をえならぬ袖にうつしもて

 ことあやまりと妹やとがめむ」

 とあれば、

 「いと屈したりや」

 と笑ひたまふ。御車かくるほどに、追ひて、

 「めづらしと故里人も待ちぞ見む

 花の錦を着て帰る君

 またなきことと思さるらむ」

 とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿などかづけたまふ。


 【32-2-1

 かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ。宮のおはします西の放出をしつらひて、御髪上の内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。

 子の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、

 「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」

 など聞こえたまふ。宮、

 「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」

 と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。

 かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。


 【32-2-2

 春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しくおはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、

 「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」

 とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。

 この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。

 草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。


 【32-2-3

 「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。

 妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。

 さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。

 宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」

 と、うちささめきて聞こえたまふ。

 「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。

 院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」

 と、聴しきこえたまへば、

 「この数には、まばゆくや」

 と聞こえたまへば、

 「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」

 とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。

 「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。みづから一具は書くべし。けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」

 と、われぼめをしたまふ。


 【32-2-4

 墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、

 「この、もの好みする若き人びと、試みむ」

 とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、

 「葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け」

 とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。

 例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。

 御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。

 御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。


 【32-2-5

 「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階さまよく歩み昇りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。

 「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」

 と、よろこびきこえたまふ。かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣、御覧じ驚きぬ。

 「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」

 と、ねたがりたまふ。

 「かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる」

 など、戯れたまふ。

 書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。

 唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。

 見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。


 【32-2-6

 左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。

 女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。

 宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。

 「目も及ばず。これは暇いりぬべきものかな」

 と、興じめでたまふ。何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。


 【32-2-7

 今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。

 嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、

 「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」

 など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。

 「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」

 など聞こえてたてまつれたまふ。侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。

 またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中下の人びとにも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。

 よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。


 【32-3-1

 内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。

 かくすこしたわみたまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に昇りて見えむの御心深かるべし。


 【32-3-2

 大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、

 「かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」

 とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。

 「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。

 つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。

 いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。

 位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。

 さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」

 など、のどやかにつれづれなる折は、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。


 【32-3-3

 かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。

 御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。

 「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」

 と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。忍びて、

 「さることをこそ聞きしか。情けなき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。心弱くなびきても、人笑へならましこと」

 など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。

 「いかにせまし。なほや進み出でて、けしきをとらまし」

 など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。

 「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつらむ」

 など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さすがにぞ見たまふ。こまやかにて、

 「つれなさは憂き世の常になりゆくを

 忘れぬ人や人にことなる」

 とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、

 「限りとて忘れがたきを忘るるも

 こや世になびく心なるらむ」

 とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。