即答 | 2首 | 40字未満 |
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応答 | 2首 | 40~100字未満 |
対応 | 2首 | ~400~1000字+対応関係文言 |
単体 | 0 | 単一独詠・直近非対応 |
※分類について和歌一覧・総論部分参照。
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上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
原文 (定家本校訂) |
現代語訳 (渋谷栄一) |
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520 贈 |
蓮葉を 同じ台と 契りおきて 露の分かるる 今日ぞ悲しき |
〔源氏〕来世は 同じ蓮の花の中でと 約束したが その葉に置く露のように別々でいる 今日が悲しい |
521 答 |
隔てなく 蓮の宿を 契りても 君が心や 住まじとすらむ |
〔女三宮〕蓮の花の宿を 一緒に仲好くしようと 約束なさっても あなたの本心は 悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう |
522 贈 |
おほかたの 秋をば憂しと 知りにしを ふり捨てがたき 鈴虫の声 |
〔女三宮〕 秋という季節はつらいものと 分かっておりますが やはり鈴虫の声だけは 飽きずに聴き続けていたいものです |
523 答 |
心もて 草の宿りを 厭へども なほ鈴虫の 声ぞふりせぬ |
〔源氏〕ご自分から この家を お捨てになったのですが やはりお声は鈴虫と同じように 今も変わりません |
524 贈 |
雲の上を かけ離れたる すみかにも もの忘れせぬ 秋の夜の月 |
〔冷泉院〕宮中から 遠く離れて 住んでいる仙洞御所にも 忘れもせず 秋の月は照っています |
525 答 |
月影は 同じ雲居に 見えながら わが宿からの 秋ぞ変はれる |
〔源氏〕月の光【面影】は 昔と同じく照っていますが【雲の中に 見えながらも】 わたしの方が すっかり変わってしまいました |
通説を受けた渋谷教授の訳は一貫して「月影」を月光と置き換えているが、月影は月影でしかなく、光源氏の物語では、光がもう見えない・隠れた状態を象徴した極めて肝心の歌詞であり、525でも自分はもう前の光とは違うという象徴表現。それでもう変わった(変はれる)と言っている。この3巻後の幻において、光は隠れて消えるので何の無理もない。
月光が変わらないのと変われる光(自分)の対比、てはなく(ナンセンス)、
同じ月影と言っても、光(自分)も前と変わったと掛けて、前と全く同じ月影という訳ではない、という歌の心。
同じ月でも違う月は、伊勢4段『西の対』以来の和歌の王道(月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身は一つもとの身にして=正月と睦月で違う年)。
雲居もまず文字通りシンプルに見る。そういう基本を皆が無視して、いたずらに分解して変えるから、月影が月光になる。
雲居の月影とは、①雲(のフィルター)がかかった月の面影(様子)、あるいは②雲の合間にある月の陰影(月が欠けた様子)。シンプルに見れば①で、その方がみやびだろう。
この文脈において、525の見え「ながら」は単なる逆接ではない微妙な含みの表現となるが、これもそもそも歌の枕にある「月影」が非常に微妙な(あるのかないのかわからない・ぼんやりした)概念の象徴であることを受けている。そういう古歌の心を解せない後世の即物的な人々が、心の微妙さ・曖昧な表現をそのままでは理解できず(貫之の仮名序によればそれを解せるのは一人二人)、その他大勢のセンス・言語感覚で捉えて理解したことにするために、「月影」を月光とするあからさまな背理が、堂々と辞書に載り通説となっている(日影を日光というのはありえるか。日影東照宮)。これで一人二人以外の歌心の解せなさ具合がどれほどのものか分かって頂けたと思う。この一人二人とは最低でも貫之・紫レベルで、何壺の何人とかは含まない。いくら解説があっても解説者の実力以上のものは出てこないし、上のことはよく見れない・わからないので雲居という。人の視線も下を見るのはたやすいが上を見上げると負担を伴う。
なお、訳を付している渋谷教授は、源氏物語全体の定家本原文及び通説的現代語訳のウェブでの公開を目的とされていると思われるので、渋谷教授個人の訳出の問題ということでは全くない。