源氏物語・葵の巻の和歌24首を抜粋一覧化し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。
内訳:13(源氏)、4(六条御息所うち1首・葵への憑依生霊)、2×2(源典侍、大宮=葵と頭中将の母)、1×3(紫上、頭中将、朝顔)※最初と最後
葵自身の和歌は物語通して一首もないが(和歌なしは主要ヒロインの中で唯一最大の特徴)、葵の出産間際に六条御息所が憑依した和歌
嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよ したがへのつま
が一首ある。このような憑依の歌は他には紫の上の一首のみで、葵と紫は特別な女性・妻として対をなしている。
そして上記和歌の「つま」について、通説は着物の褄とするが、定家本系大島本に基づき流布する原文は「したがへのつま」(大系)、「したがひのつま」(全集・集成)であり、下交ひでも褄でもない。「したがひ」は下交ひ解釈を受けた校訂と解され、褄という解釈は文脈に根拠がなく、その含みがあったとしても引っ掛けに過ぎず、第一義は妻ということを論証して改めた(「したがひのつま」の解釈問題参照)。
即答 | 9首 | 40字未満 |
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応答 | 6首 | 40~100字未満 |
対応 | 6首 | ~400~1000字+対応関係文言 |
単体 | 3首 | 単一独詠・直近非対応 |
※分類について和歌一覧・総論部分参照。
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上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
原文 (定家本校訂) |
現代語訳 (渋谷栄一) |
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109 独 |
影をのみ 御手洗川の つれなきに 身の憂きほどぞ いとど知らるる |
〔六条御息所〕今日の御禊に お姿をちらりと見たばかりで そのつれなさに かえって我が身の不幸せが ますます思い知られる |
110 贈 |
はかりなき 千尋の底の 海松ぶさの 生ひゆくすゑは 我のみぞ見む |
〔源氏〕限りなく 深い海の底に 生える海松のように豊かに 成長してゆく黒髪は わたしだけが見届けよう |
111 答 |
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ち干る潮の のどけからぬに |
〔紫上〕千尋も深い愛情を誓われても どうして分りましょう 満ちたり干いたり 定めない潮のような あなたですもの |
112 贈 |
はかなしや 人のかざせる 葵ゆゑ 神の許しの 今日を待ちける |
〔源典侍〕あら情けなや、 他の人と同車なさっているとは 神の許す 今日の機会を待っていましたのに |
113 答 |
かざしける 心ぞあだに おもほゆる 八十氏人に なべて逢ふ日を |
〔源氏〕そのようにおっしゃる あなたの心こそ当てにならないもの と思いますよ たくさんの人々に 誰彼となく靡くものですから |
114 答 |
悔しくも かざしけるかな 名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを |
〔源典侍〕ああ悔しい、 葵に逢う日を当てに楽しみにしていたのに わたしは期待を抱かせるだけの 草葉に過ぎないのですか |
115 贈 |
袖濡るる 恋路とかつは 知りながら おりたつ田子の みづからぞ憂き |
〔六条御息所〕袖を濡らす 恋路とは 分かっていながら そうなってしまう わが身の疎ましいことよ |
116 答 |
浅みにや 人はおりたつ わが方は 身もそぼつまで 深き恋路を |
〔源氏〕袖が濡れるとは 浅い所に お立ちだからでしょう わたしは全身ずぶ濡れになるほど 深い泥(こひじ)――恋路に立っております |
117 贈:独 |
嘆きわび 空に乱るる わが魂を 結びとどめよ したがへのつま |
〔六条御息所生霊in葵→源氏〕 悲しみに堪えかねて 抜け出た わたしの魂を 結び留め【よ】てください、 【わたしが従えるあなたの妻】下前の褄を結んで |
118 独 |
のぼりぬる 煙はそれと わかねども なべて雲居の あはれなるかな |
〔源氏〕空に上った 煙は雲と混ざり合ってそれと 区別がつかないが おしなべてどの雲も しみじみと眺められることよ |
119 独 |
限りあれば 薄墨衣 浅けれど 涙ぞ袖を 淵となしける |
〔源氏〕きまりがあるので 薄い色の喪服を 着ているが 涙で袖は 淵のように深く悲しみに濡れている |
120 贈 |
人の世を あはれと聞くも 露けきに 後るる袖を 思ひこそやれ |
〔六条御息所〕人の世の無常を この菊の花の聞くにつけ 涙がこぼれますが 先立たれなさってさぞかしお袖を濡らしてと お察しいたします |
121 答 |
とまる身も 消えしもおなじ 露の世に 心置くらむ ほどぞはかなき |
〔源氏〕生き残った者も 死んだ者も同じ 露のようにはかない世に 心の執着を残して置く ことはつまらないことです |
122 贈 |
雨となり しぐるる空の 浮雲を いづれの方と わきて眺めむ |
〔頭中将〕妹が時雨となって 降る空の 浮雲を どちらの方向の雲と 眺め分けようか |
123 答 |
見し人の 雨となりにし 雲居さへ いとど時雨に かき暮らすころ |
〔源氏〕妻が 雲となり 雨となってしまった空までが ますます時雨で 暗く泣き暮らしている今日この頃だ |
124 贈 |
草枯れの まがきに残る 撫子を 別れし秋の かたみとぞ見る |
〔源氏〕草の枯れた 垣根に咲き残っている 撫子の花を 秋に死別れたお方の 形見と思って見ています |
125 答 |
今も見て なかなか袖を 朽たすかな 垣ほ荒れにし 大和撫子 |
〔大宮=葵の母〕ただ今見ても かえって袖を 涙で濡らしております 垣根も荒れはてて 母親に先立たれてしまった撫子なので |
126 贈 |
わきてこの 暮こそ袖は 露けけれ もの思ふ秋は あまた経ぬれど |
〔源氏〕とりわけ今日の 夕暮れは涙に袖を 濡らしております 今までにも物思いのする秋はた くさん経験してきたのですが |
127 答 |
秋霧に 立ちおくれぬ と聞きしより しぐるる空も いかがとぞ思ふ |
〔朝顔〕秋霧の立つころ、 先立たれなさった とお聞き致しましたが それ以来時雨の季節につけ いかほどお悲しみのことかとお察し申し上げます |
128 独 |
なき魂ぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれがたき 心ならひに |
〔源氏〕亡くなった人の魂も ますます離れがたく悲しく思っていることだろう 共に寝た床を わたしも離れがたく 思うのだから |
129 独 |
君なくて 塵つもりぬる 常夏の 露うち払ひ いく夜寝ぬらむ |
〔源氏〕あなたが亡くなってから 塵の積もった床に 涙を払いながら 幾晩独り寝をしたことだろうか |
130 贈:独 |
あやなくも 隔てけるかな 夜をかさね さすがに馴れし 夜の衣を |
〔源氏→紫上〕どうして長い間 何でもない間柄でいたのでしょう 幾夜も幾夜も 馴れ親しんで 来た仲なのに |
131 贈 |
あまた年 今日改めし 色衣 着ては涙ぞ ふる心地する |
〔源氏〕何年来も 元日毎に参っては着替えをしてきた 晴着だが それを着ると今日は涙が こぼれる思いがする |
132 答 |
新しき 年ともいはず ふるものは ふりぬる人の 涙なりけり |
〔大宮=葵の母〕新 年になったとは申しても 降りそそぐものは 年古りた母の 涙でございます |
117 贈:独 |
嘆きわび 空に乱るる わが魂を 結びとどめよ したがへのつま |
悲しみに堪えかねて 抜け出た わたしの魂を 結び留めよ わたしが従えるあなたの妻 |
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問題となるしたがへ部分の表記は諸本で分かれるが、
「したかへ」(大島本=定家本系写本)
「したがへ」(新大系・渋谷校訂)
「したがひ」(全集・集成)となる。
「下交ひ」は既に解釈を入れ込んだ当て字である。
そして「したがへ・したがひ」ともに源氏原文では全て従っての文脈しかないし、ここでも衣服の文脈という根拠がない。
通説の代表・全集における本和歌の訳と注釈は以下の通りである(空白と下線と(?)は当サイトによる)。
「なげきわび 空に乱るる わが魂たまを 結びとどめよ したがひのつま」
「嘆きのあまりに 身を抜け出て空にさまよっている 私の魂を、下前の褄 を結んでつなぎとめてください」
「したがひ」は、着物の前を合わせた内側になる部分、下前したまえ。その褄つまを結ぶ(??)と、さまよい出た魂はもとに戻るという信仰(?)があったらしい。人目忍んでのわが「夫つま」をひびかせた表現か。
まず注釈のような信仰(?)があるのかそもそも疑問。書きぶりから、従来の学者達が上記解釈を正当化するために想定・作出した概念の可能性がある(循環論法)。
また仮にそのような信仰があったとして、ここでの場面に適用も応用もできない。
つまり声の主を原文(のたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり)及び通説通りに六条御息所の生霊のものとするなら、御息所が源氏に葵の褄を結ばせてさまよい出た自身の魂を「もとに戻」そうとしているわけではない。別の体に「結びとどめよ」と言っているので、むしろもとに戻すなと言っているのだが(この内容に疑問はないだろう)、褄を結べば元に戻る信仰を根拠にしている。それはいったいどういう論理が働いているのだろうか。
これが辻褄が全く合わないということ。褄(すそ)は合わせるもので、褄を結ぶ(??)と言うのは襟を結ぶという位それ自体でおかしい。結論ありきのこじつけと思う。
そもそも全集の訳と注釈(さまよい出た魂がもとに戻る信仰・わが夫つま)を総合して見ると葵自身の歌と見ているのではないか。そうではないのだろうが、上記の全集の訳と注釈を御息所か葵の発言としてどちらが自然かと言われたら、葵と見る方が自然だろう。
この歌の相手を源氏と全集は認定しているが、であるなら、わか夫発言は素直に見れば葵の発言であり、「もとに戻る」信仰云々も葵の魂でないとおかしい。別の体に入った御息所の魂をつなぎとめる道理も義理も源氏にはないが、葵にならある。
つまり上記解釈は全く問題なく葵にでも適用できる以上、六条御息所の発言たる和歌として何の説明にもなっていない、特段の霊力のないイタコ的に誰にでも言える抽象一般論。そのようなイタコ達は情況に応じて大きなパターンを用意しているらしい。
そして直接に妻の葵の意識を従えさせたこの歌で、「結び」がかかるのは魂(たま)。全集も上記注釈に続けて「「思ひあまり出でにし魂のあるならむ夜深く見えば魂結びせよ(伊勢・百十段)」と同じ発想」とする。しかしここで魂を結びとどめるなら葵の体しかない。六条御息所の体に結びとどめて=戻してほしいという意味では通らないし、そうだという論者はいないだろう。だから六条御息所が葵の体に命令して呼び掛けているのが第一。源氏に呼び掛ける意味があってもおかしくはないが、直接的ではなく追い払うなという間接的な牽制の意味になる。
結ぶのは褄ではなく魂(の糸)。文脈も和歌も一貫して魂の内容で、褄を結ぶ根拠が全くないし、全集の書き方からもそのような歌の先例はない。
そもそも褄(着物のすそ)は結ぶものなのか疑問。褄は合わせるもの。それで「辻褄が合う」。そういう表現だからそういこともあるのではなく、結ぶつまは褄のこととする解釈が誤っている。
通説の原文は「したがひ」とするが、「とどめよ」からの明確な命令形の流れから「したがへ(従え)」と見るべきである。
源氏原文でも「したがひ」は従っての文脈しか存在せず、ここに褄の意味を当てた下交ひを当てることは著者全体の文脈に根拠がない。この点、蜻蛉日記での文脈(きぬ縫ひて奉るこそよかなれ…唐衣なれにしつまをうちかへし わがしたがひになすよしもがな)と比較すれば、違いは明らか。
しかるに本和歌の文脈は一貫して夫婦で転生と魂のことしか言っていない文脈なので、したがって「つま」は妻であり、褄とする根拠はない。
こうした魂の文脈から「結びとどめよ」と呼びかける「つま」は素直に見れば源氏の妻たる葵の体。たまとつまがこの歌の肝心。
文脈も歌詞も一貫して霊的な歌で、「唐衣きつゝ馴にしつましあれば」(伊勢・東下り)「唐衣なれにしつまをうちかへしわがしたがひになすよしもがな」(蜻蛉日記)のような明確な衣がどこにもないのに「つま」を着物の褄と決めて見る解釈は筋違い。
ちなみに伊勢の「つま」は妻との別れを嘆く歌で、他方で蜻蛉日記は伊勢の通説の理解に従って褄の意味で用いており、両者は同じ意図をもった歌ではない。それは両者の一貫した文脈の違い(男女の物語と着物の仕立て)から言える。そしてここでの文脈は一貫して夫婦(かならず逢ふ瀬)と魂の文脈(魂は、げにあくがるる)で、着物がひっかかるような文脈はない(伊勢では旅の道中、蜻蛉はきぬ縫ひて奉る)。
昔の知識を知っていても歌の心を解せない(貫之の仮名序「こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき」)大真面目な人達が無理やりひねり出した説明が受け継がれ、ここでの通説のようなドグマが生み出されている。
なぜ「つま」を妻とせず、当然のように褄や夫とするのだろうか。
なぜ諸説は頑なに妻を無視するのだろうか。
東→吾妻→妻問いのようにツマ=妻が古事記のヤマトタケル以来の用法。夫につまを当てるのは、あずましく(大人しく言うことを聞いてくれる)奉仕的な夫としか解せない場合のみで、日本の一般伝統的夫婦観はこれと真逆。妻に一途な人麻呂ならともかく、すけこましを上等とする平安貴族社会という一般的説明に照らせば「つま」は妻が第一で、夫が「つま」らしくなる一般的な根拠はない(ちなみにつまらないの語源も上手く説明されていない)。現状のつまの古語理解は、特殊と一般を混同反転・本末転倒させている点で問題である(本末の本たる人麻呂は極めて特殊な人物で、その他一般の集大成とは言えない。本歌(万葉の「或本に曰く」)も元々は人麻呂歌集という本)。
したがってここでの「つま」は端的には源氏に対する葵の体、次に気の強い六条御息所と葵(車争い参照)に対し付き添う女性的な源氏の含みとなる。しかしそれは極めて特殊な含みで、全集にルビがあるように通常の文面では全くない。褄とする説は、文脈無視で代入する暗記教育的弊害。「つま」だけ見て褄だとはならないだろう。文脈による確実な限定がなければ。それでどのような限定が文脈にあるかといえば、結論ありきのこじつけ限定解釈があるのみではないか。