源氏物語・桐壺(きりつぼ)巻の和歌9首を抜粋一覧化し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。
桐壺巻の和歌は、一つの贈答が他の贈答をまたぐという他には終盤の浮舟巻にしかない極めて特殊な変則から入り、桐壺巻の付け足し説(あるいは書き直し)を象徴的に裏付けていると思う。
内訳:4(桐壺帝)、2(祖母北の方=桐壺母)、1×3(桐壺、靫負命婦=帝の使者、左大臣=葵と頭中将の父)※最初と最後
即答 | 4首 | 40字未満 |
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応答 | 0 | 40~100字未満 |
対応 | 2首 | ~400~1000字+対応関係文言 |
単体 | 3首 | 単一独詠・直近非対応 |
※分類について和歌一覧・総論部分参照。
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上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
原文 (定家本校訂) |
現代語訳 (渋谷栄一) |
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1 贈:独 |
限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり |
〔桐壺更衣→帝〕人の命には限りがあるものと、 今、別れ路に立ち、 悲しい気持ちでいますが、 わたしが行きたいと思う路は 生きている世界への路でございます。 |
2 贈 |
宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ |
〔桐壺帝→祖母北の方〕宮中の萩に 野分が吹いて露を結ばせたり 散らそうとする風の音を聞くにつけ、 幼子の身が 思いやられる |
3 贈 |
鈴虫の 声の限りを 尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな |
〔靫負命婦〕鈴虫が 声をせいいっぱい 鳴き振るわせても 長い秋の夜を尽きることなく 流れる涙でございますこと |
4 答 |
いとどしく 虫の音しげき 浅茅生に 露置き添ふる 雲の上人 |
〔祖母北の方〕ただでさえ 虫の音のように泣き暮らしておりました 荒れ宿に さらに涙をもたらします 内裏からのお使い人よ |
5 答 |
荒き風 ふせぎし蔭の 枯れしより 小萩がうへぞ 静心なき |
〔祖母北の方〕荒い風を 防いでいた木が 枯れてからは 小萩の身の上が 気がかりでなりません |
6 独 |
尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく |
〔桐壺帝〕亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれれば よいのだがな、 人【幻=夢】づてにでも、 魂のありかを どこそこと知ることができるように |
※幻を幻術士とする通説は長恨歌からの引用というが、長恨歌には幻も幻術士もない。あるのは夢と道士。「幻」一字で道士・幻術士とするのは文言上絶対に無理。「幻」を夢=ビジョンとするのが聖書以来古来の用法で、源氏の巻名、幻と夢浮橋でも対になる。即物的な霊的無理解から幻術士概念が生まれた。霊媒を幻術士という例はなくここでの「つて」も媒介の意味。幻術即ちまやかしでもいいから霊を見たいと思う遺族はいない。つまり「魂のありか」など認めない人達の解釈、それが幻術士解釈。 | ||
7 独 |
雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿 |
〔桐壺帝〕雲の上の宮中までも 涙に曇って見える 秋の月だ ましてやどうして澄んで見えようか、 草深い里で |
8 贈 |
いときなき 初元結ひに 長き世を 契る心は 結びこめつや |
〔桐壺帝〕幼子の 元服の折、 末永い仲を そなたの姫との間に 結ぶ約束はなさったか |
9 答 |
結びつる 心も深き 元結ひに 濃き紫の 色し褪せずは |
〔左大臣〕元服の折、約束した 心も深いものとなりましょう その 濃い紫の 色さえ変わらなければ |
「尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかをそこと知るべく」(桐壺6)
幻は夢。尋ね行く夢幻(夢の世界)をつてにでも。「つて」とあるから人づでだではない。それは歌の心を全く解せない即物的な解釈。
この「幻」の著者の用法を幻巻の和歌から引用しよう。
紫の上が亡くなって、
「神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、いとど眺めたまひて、夕暮の空のけしきも、えもいはぬ心細さに、「降りしかど」と独りごちおはす。
雲居を渡る雁の翼もうらやましくまぼられたまふ。
大空を かよふ幻 夢にだに 見えこぬ魂の行方たづねよ」(幻583)
通説はこの幻と夢を切り離して幻術士とするが、ここでの「たづねよ」は明示的に雁に呼び掛けている文脈。「大空をかよふ」は渡り鳥の雁の習性である。
「北へ行く雁の翼に言伝てよ 雲の上がきかき絶えずして」(紫式部集16)。
これらをまとめると、幻巻の歌は、空飛ぶ雁に託し、夢幻(ゆめまぼろし)の世界まで訪ねていってコトヅテしてくれないかという歌。
殊更に幻と夢を切り離し「かよふ幻」と切り出すのは不自然で無理があり、「大空をかよふ」のは著者の文脈上「(雲居を渡る)雁」のみにかかる。「幻」を切り出して幻術士と解釈する根拠は文脈にないが、大空を通うのは雁という文脈は明示的かつ多角的にある。
雁は伊勢物語10段以来頼む相手(たのむの雁)だが、幻術士が大空を通う(飛び回る)などそんな用例の歌はあるのか。古今の業平認定同様、最初のずれた見立てを集団で正当化し、ひたすらこじつけて異論を無視して(自分では当否を判断できず)正解とみなしてきたに過ぎない。
幻という語は、幻巻の題名の他、原文では桐壺・幻の二首しかない。この文脈で幻は幻術士というなら幻巻は幻術士巻となるがそういうセンスはありえるか。またこの二首は愛する人を亡くした文脈も歌詞も完全に符合している。さらに桐壺巻と幻巻は源氏の物語の最初と最後であるから、この2つは特別に意図された歌で、無関係に見ることはできない。
桐壺だけ後から書かれたあるいは修正されたと見れば(贈答の不自然な技巧的配置からすればそうとしか解せない)、「大空を~魂の行方たづねよ」を受けて「尋ねゆく」が作られたと見るのが自然だろう。
そして「たづねよ」は雁への言伝で、「尋ねゆく」は自分となる。