源氏物語 4帖 夕顔:あらすじ・目次・原文対訳

空蝉 源氏物語
第一部
第4帖
夕顔
若紫

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 夕顔のあらすじ

 源氏17歳夏から10月。

 従者藤原惟光の母親でもある乳母の見舞いの折、隣の垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏が取りにやらせたところ、邸の住人が和歌で返答する。市井の女とも思えない教養に興味を持った源氏は、身分を隠して彼女のもとに通うようになった。可憐なその女は自分の素性は明かさないものの、逢瀬の度に頼りきって身を預ける風情が心をそそり、源氏は彼女にのめりこんでいく。

 あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん、源融の旧邸六条河原院がモデルとされる)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、深夜に女性の霊(六条御息所とも言われるが不明)が現れて恨み言を言う怪異にあう。夕顔はそのまま人事不省に陥り、明け方に息を引き取った

 夕顔の葬儀を終え、源氏は夕顔に仕えていた女房・右近から夕顔はかつて、頭中将の側室だった事を打ち明けられる。源氏はかつて「雨夜の品定め」で頭中将が語っていた「愛した女人が、北の方の嫉妬に遭い、姿を消した。」その女人が夕顔であることを悟る。

 さらに、姫君(後の玉鬘)が一人いる事を知った源氏は、右近に「姫君を引き取りたい」と切り出すが、惟光に制止された。騒ぎになる事を恐れ事を公にせず、しばらくしてから夕顔が暮らしていた家へ向かった源氏。しかし、夕顔の家はすでに無人だった。

(以上Wikipedia夕顔(源氏物語)より。色づけと線は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#夕顔(19首:別ページ)
主要登場人物
 
第4帖 夕顔
 光る源氏の十七歳 夏から立冬の日までの物語  
第一章 夕顔の物語 夏の物語
第二章 空蝉の物語
第三章 六条婦人の物語 初秋の物語
第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
第五章 空蝉の物語(2)
第六章 夕顔の物語(3)
第七章 空蝉の物語(3)
 
 
第一章 夕顔の物語 夏の物語
 第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う
 第二段 数日後、夕顔の宿の報告
 
第二章 空蝉の物語
 第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す
 
第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
 第一段 霧深き朝帰りの物語
 
第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
 第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う
 第二段 八月十五夜の逢瀬
 第三段 なにがしの院に移る
 第四段 夜半、もののけ現われる
 第五段 源氏、二条院に帰る
 第六段 十七日夜、夕顔の葬送
 第七段 忌み明ける
 
第五章 空蝉の物語(2)
 第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答
 
第六章 夕顔の物語(3)
 第一段 四十九日忌の法要
 
第七章 空蝉の物語(3)
 第一段 空蝉、伊予国に下る
定家注釈
校訂付記
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
十七歳 参議兼近衛中将
呼称:君・帝の御子
夕顔(ゆうがお)
故三位中将の娘、頭中将の愛人
呼称:女・常夏・女君
六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)
故東宮の妃、源氏の愛人
呼称:六条わたり・女
空蝉(うつせみ)
故中納言兼衛門督の娘、伊予介の後妻
呼称:北の方・女房
軒端荻(のきばのおぎ)
伊予介の娘、紀伊守の兄妹
呼称:片つ方人・娘
頭中将(とうのちゅうじょう)
左大臣の嫡男、源氏の妻葵の上の兄 蔵人頭兼近衛中将
呼称:頭中将・中将殿・君・中将・頭の君大夫
惟光(これみつ)
大弐乳母の子、源氏の乳兄弟
呼称:惟光・大夫
伊予介(いよのすけ)
空蝉の夫
呼称:伊予介・伊予
右近(うこん)
夕顔の乳母の子
呼称:右近・右近の君・女

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  夕顔
 
 

第一章 夕顔の物語 夏の物語

 
 

第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う

 
1  六条わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五条なる家尋ねておはしたり。
 
 六条辺りのお忍び通いのころ、内裏からご退出なさる休息所に、大弍の乳母がひどく病んで尼になっていたのを見舞おうとして、五条にある家を尋ねていらっしゃった。
 
2  御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。
 立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。
 いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。
 
 お車が入るべき正門は施錠してあったので、供人に惟光を呼ばせて、お待ちあそばす間、むさ苦しげな大路の様子を見渡していらっしゃると、この家の隣に、桧垣という板垣を新しく作って、上方は半蔀を四、五間ほどずらりと吊り上げて、簾などもとても白く涼しそうなところに、美しい額つきをした簾の透き影がたくさん見えてこちらを覗いている。
 立ち動き回っているらしい下半身を想像すると、やたらに背丈の高い感じがする。
 どのような者が集まっているのだろうと、一風変わった様子にお思いになる。
 
3  御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせたまはず、誰れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何処かさして(自筆奥入01)」と思ほしなせば、玉の台も同じことなり。
 
 お車もひどく地味になさり、先払いもおさせにならず、自分を誰と分かろうかと気をお許しなさって、窓から少し顔を出して御覧になっていると、門は蔀のような扉を押し上げてあって、その奥行きもなく、ささやかな住まいを、しみじみと、「どの住まいを指してもこの世はみな仮の宿だ」とお考えになってみると、立派な御殿も同じことである。
 
4  切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
 
 切懸の板塀みたいな物に、とても青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いまつわっているところに、白い花が、自分だけひとり楽しげに微笑んで咲いている。
 
5  〔源氏〕「遠方人にもの申す(自筆奥入02)」  〔源氏〕「遠方の人にお尋ね申す、そこに咲いている花は何か」
6  と独りごちたまふを、御隋身ついゐて、  と独り言をおっしゃると、御随身がひざまずいて、
7  〔随身〕「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。
 花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」
 〔随身〕「あの白く咲いている花を、夕顔と申します。
 花の名は人並のようでいて、このような賤しい垣根に咲くのでございます」
8  と申す。
 げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、
 と申し上げる。
 なるほどとても小さい家が多くて、むさ苦しそうな界隈で、この家もかの家も、みな見苦しくちょっと傾いて、頼りなさそうな軒の端などに這いまつわっているのを、
9  〔源氏〕「口惜しの花の契りや。
 一房折りて参れ」
 〔源氏〕「気の毒な花の運命よ。
 一房手折ってまいれ」
10  とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
 
 とおっしゃるので、御随身がこの押し上げてある門から入っていって手折る。
 
11  さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で来て、うち招く。
 白き扇のいたうこがしたるを、
 粗末な家とは言うものの、しゃれた遣戸口に、黄色い生絹の単重袴を長く着こなした女童で、かわいらしげな子が出て来て、ちょっと手招をきする。
 白い扇でたいそう香を薫きしめたのを差し出して、
12  〔童女〕「これに置きて参らせよ。
 枝も情けなげなめる花を」
 〔童女〕「これに載せて差し上げなさいね。
 枝も風情なさそうな花ですもの」
13  とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で来たるして、奉らす。
 
 と言って与えたところに、ちょうど門を開けて惟光朝臣が出て来たので、随身は惟光に取り次がせて差し上げさせる。
 
14  〔惟光〕「鍵を置きまどはしはべりて、いと不便なるわざなりや。
 もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど、らうがはしき(校訂01)大路に立ちおはしまして」とかしこまり申す。
 
 〔惟光〕「鍵を置き忘れまして、大変にご迷惑をお掛けいたしました。
 どなた様と分別申し上げられる者もおりませぬ辺りですが、ごみどみした大路にお立ちあそばして」とお詫び申し上げる。
 
15  引き入れて、下りたまふ。
 惟光が兄の阿闍梨、婿の三河守、娘など、渡り集ひたるほどに、かくおはしましたる喜びを、またなきことにかしこまる。
 
 車を門内に引き入れて、お降りになる。
 惟光の兄の阿闍梨や、娘婿の三河守、娘などが寄り集まっているところに、このように源氏の君がお越しあそばされたお礼を、この上ないことと恐縮して申し上げる。
 
16  尼君も起き上がりて、  尼君も起き上がって、
17  〔尼君〕「惜しげなき身なれど、捨てがたく思うたまへつることは、ただ、かく御前にさぶらひ、御覧ぜらるることの変りはべりなむことを口惜しく思ひたまへ、たゆたひしかど、忌むことのしるしによみがへりてなむ、かく渡りおはしますを、見たまへはべりぬれば、今なむ阿弥陀仏の御光も、心清く待たれはべるべき」  〔尼君〕「惜しくもない身の上ですが、この世を捨てがたく存じておりましたことは、ただ、このように生きていてお目に入れられることが、これまで通りとは変わってしまいますことが残念に存じられて、ためらっておりましたが、受戒の効果があって生き返って、このようにお越しあそばされましたのを、お目にかかれましたので、今は阿弥陀様のご来迎も、心残りなく待つことができましょう」
18  など聞こえて、弱げに泣く。
 
 などと申し上げて、弱々しく泣く。
 
19  〔源氏〕「日ごろ、おこたりがたくものせらるるを、安からず嘆きわたりつるに、かく、世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれに口惜しうなむ。
 命長くて、なほ位高くなど見なしたまへ。
 さてこそ、九品の上にも、障りなく生まれたまはめ。
 この世にすこし恨み残るは、悪ろきわざとなむ聞く」など、涙ぐみてのたまふ。
 
 〔源氏〕「いく日も、思わしくなくおられるのを、案じて心痛めていましたが、このように、世を捨てた尼姿でいらっしゃると、まことに悲しく残念です。
 長生きをして、さらにわたしの位が高くなるのなども御覧下さい。
 そうしてから、九品浄土の最上位にも、差し障りなくお生まれ変わりなさい。
 この世に少しでも執着が残るのは、悪いことと聞いております」などと、涙ぐんでおっしゃる。
 
20  かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人は、あさましうまほに見なすものを、まして、いと面立たしう、なづさひ仕うまつりけむ身も、いたはしうかたじけなく思ほゆべかめれば、すずろに涙がちなり。
 
 不出来な子でさえも、乳母のようなかわいがるはずの人には、あきれるくらいに完全無欠に思い込むものを、ましてまことに光栄にも親しくお世話申し上げたわが身も、労わしくもったいなく思われるようなので、わけもなく涙に濡れるのである。
 
21  子どもは、いと見苦しと思ひて、「背きぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたまふ」と、つきしろひ目くはす。
 
 乳母の子供たちは、とてもみっともないと思って、「捨てたこの世に未練があるようで、ご自身から泣き顔をお目にかけていなさる」と言って、突き合い目配せし合う。
 
22  君は、いとあはれと思ほして、  源氏の君は、とてもしみじみと感じられて、
23  〔源氏〕「いはけなかりけるほどに、思ふべき人びとのうち捨ててものしたまひにけるなごり、育む人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひ睦ぶる筋は、またなくなむ思ほえし。
 人となりて後は、限りあれば、朝夕にしもえ見たてまつらず、心のままに訪らひ参づることはなけれど、なほ久しう対面せぬ時は、心細くおぼゆるを、『さらぬ別れはなくもがな(自筆奥入03・04)』」
 〔源氏〕「わたしが幼かったころに、かわいがってくれるはずの方々が亡くなってしまわれた後は、養育してくれる人々はたくさんいたようでしたが、親しく甘えられる人としては、他にいなく思われました。
 成人して後は、きまりがあるので、朝に夕にというようにもお目にかかれず、思い通りにお訪ね申すことはなかったが、やはり久しくお会いしていない時は、心細く思われましたが、『避けられない別れなどはあってほしくないものだ』と思われます」
24  となむ、こまやかに語らひたまひて、おし拭ひたまへる袖のにほひも、いと所狭き(校訂02)まで薫り満ちたるに、げに、よに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと、尼君をもどかしと見つる子ども、皆うちしほたれけり。
 
 と、懇ろにお話なさって、お拭いになった袖の匂いも、とても辺り狭しと薫り満ちているので、なるほど、ほんとうに考えてみれば、並々でない運命の方であったと、尼君を非難がましく見ていた子供たちも、皆涙ぐんだ。
 
25  修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。
 
 修法などを、再び重ねて始めるべき事などをお命じあそばして、お立ちになろうとして、惟光に紙燭を持って来させて、先程の扇を御覧になると、使い慣らした主人の移り香が、とても深く染み込んで慕わしくて、美しく書き流してある。
 
 

26
 〔夕顔〕
 「心あてに それかとぞ見る 白露の
 光そへたる 夕顔の花」
 〔夕顔〕
「当て推量に貴方さまでしょうかと思います
  白露の光を加えて美しい夕顔の花は」
 
26  そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。
 惟光に、
 誰とも分からないように書き紛らわしているのも、上品に教養が見えるので、とても意外に、興味を惹かれなさる。
 惟光に、
27  〔源氏〕「この西なる家は何人の住むぞ。
 問ひ聞きたりや」
 〔源氏〕「この家の西にある家には、どんな者が住んでいるのか。
 尋ね聞いているか」
28  とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、えさは申さで、  とお尋ねになると、いつもの厄介なお癖とは思うが、そうは申し上げず、
29  〔惟光〕「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」  〔惟光〕「この五、六日この家におりますが、病人のことを心配して看護しております時なので、隣のことは聞けません」
30  など、はしたなやかに聞こゆれば、  などと、無愛想に申し上げるので、
31  〔源氏〕「憎しとこそ思ひたれな。
 されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。
 なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」
 〔源氏〕「気に入らないと思っているな。
 けれど、この扇について、尋ねなければならない理由がありそうに思われるのだよ。
 やはり、この界隈の事情を知っていそうな者を呼んで尋ねよ」
32  とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。
 
 とおっしゃるので、奥に入って行って、この家の管理人の男を呼んで尋ねる。
 
33  〔惟光〕「揚名介(奥入01・自筆奥入14)なる人の家になむはべりける。
 男は田舎にまかりて(校訂03)、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて来通ふ、と申す。
 詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。
 
 〔惟光〕「揚名介である人の家だそうでございました。
 男は地方に下向していて、妻は若く派手好きで、その姉妹などが宮仕え人として行き来している、と申します。
 詳しいことは、下人にはよく分からないのでございましょう」と申し上げる。
 
34  〔源氏〕「さらば、その宮仕人ななり。
 したり顔にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。
 御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、
 〔源氏〕「それでは、その宮仕人のようだ。
 得意顔になれなれしく詠みかけてきたものよ」と、「きっと興覚めしそうな身分であろうか」とお思いになるが、名指して詠みかけてきた気持ちが、憎からず見過ごしがたいのが、例によって、こういった方面には、重々しくないご性分なのであろう。
 君の御畳紙にまったく別人の筆跡にお書きになって、
 

27
 〔源氏〕
 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに
 ほのぼの見つる 花の夕顔」
 〔源氏〕「もっと近寄ってどなたかとはっきり見ましょう
  黄昏時にぼんやりと見えた美しい花の夕顔を」
 
35  ありつる御随身して遣はす。
 
 先程の御随身をお遣わしになる。
 
36  まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど経ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。
 
 まだ見たことのないお姿であったが、まことにはっきりと推察されなさる君のおん横顔を見過ごさないで、さっそく詠みかけてきた行為に対して、返歌を下さらないで時間が長く過ぎたので、何となく体裁悪く思っていたところに、このようにわざわざ返歌をくれたというふうだったので、いい気になって、「何と申し上げましょう」などと言い合っているようだが、生意気なと思って、随身は帰参した。
 
37  御前駆の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。
 半蔀は下ろしてけり。
 隙々より見ゆる灯の光、蛍よりけにほのかにあはれなり。
 
 御前駆の松明を弱く照らして、とてもひっそりとお出になる。
 半蔀は既に下ろされていた。
 隙間隙間から見える灯火の明りは、蛍よりもさらに微かでしみじみとした感じである。
 
38  御心ざしの所には、木立、前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。
 うちとけぬ御ありさまなどの、気色ことなるに、ありつる垣根、思ほし出でらるべくもあらずかし。
 
 お目当ての所では、木立や前栽などが、世間一般の所とは違い、とてもゆったりと奥ゆかしく住んでいらっしゃる。
 気の置けるご様子などが、他の人とは格別なので、先程の垣根の女などは、お思い出されるべくもない。
 
39  翌朝、すこし寝過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。
 朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。
 
 翌朝、少しお寝過ごしなさって、日が差し出るころにお帰りになる。
 朝帰りの姿は、なるほど世間の人がお褒め申し上げるようなのも、ごもっともなお美しさであった。
 
40  今日もこの蔀の前渡りしたまふ。
 来し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み処ならむ」とは、往き来に御目とまりたまひけり。
 
 今日もこの半蔀の前をお通り過ぎになる。
 今までにもお通り過ぎなさった辺りであるが、わずかちょっとしたことでお気持ちを惹かれて、「どのような女が住んでいる家なのだろうか」と思っては、行き帰りにお目が止まったのであった。
 
 
 

第二段 数日後、夕顔の宿の報告

 
41  惟光、日頃ありて参れり。
 
 惟光が、それから数日して参上した。
 
42 〔惟光〕「わづらひはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見たまへ(校訂04)あつかひてなむ」  〔惟光〕「患っております者が、依然として弱そうでございましたので、いろいろと看病いたしておりまして」
43 など、聞こえて、近く参り寄りて聞こゆ。
 
 などと、ご挨拶申し上げて、近くに上ってお話申し上げる。
 
44 〔惟光〕「仰せられしのちなむ、隣のこと知りてはべる者、呼びて問はせはべりしかど、はかばかしくも申しはべらず。
 『いと忍びて、五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに知らせず』となむ申す。
 
 〔惟光〕「仰せ言のございました後に、隣のことを知っております者を、呼んで尋ねさせましたが、はっきりとは申しません。
 『ごく内密に、五月のころからおいでの方があるようですが、誰それとは全然その家の内の人にさえ知らせていません』と申します。
 
45  時々、中垣のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影見えはべり。
 褶だつもの、かこと(校訂05)ばかり引きかけて、かしづく人はべるなめり。
 
 時々、中垣から覗き見いたしますと、なるほど、若い女たちの透き影が見えます。
 褶めいた物を、申しわけ程度にひっかけているので、仕えている主人がいるようでございます。
 
46  昨日、夕日のなごりなくさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。
 もの思へるけはひして、ある人びとも忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
 昨日、夕日がいっぱいに射し込んでいました時に、手紙を書こうとして座っていました女人の、顔がとてもようございました。
 憂えに沈んでいるような感じがして、側にいる女房たちも涙を隠して泣いている様子などが、はっきりと見えました」
47  と聞こゆ。
 君うち笑みたまひて、「知らばや」と思ほしたり。
 
 と申し上げる。
 源氏の君はにっこりなさって、「知りたいものだ」とお思いになった。
 
48  おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ふには、好きたまはざらむも、情けなくさうざうしかるべしかし、人のうけひかぬほどにてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、好ましうおぼゆるものを、と思ひをり。
 
 ご声望こそ重々しいはずのご身分であるが、お若いご年齢のほどや、女性たちがお慕いしお褒め申し上げている様子などを考えると、色恋ごとに興味をお感じにならないのも、風情がなくきっと物足りない気がするだろうが、世間の人が承知しない身分の者でさえ、やはり、しかるべき身分の人には、興味をそそられるものだから、と惟光は思っている。
 
49  〔惟光〕「もし、見たまへ得ることもやはべると、はかなきついで作り出でて、消息など遣はしたりき。
 書き馴れたる手して、口とく返り事などしはべりき。
 いと口惜しうはあらぬ若人どもなむ、はべるめる」
 〔惟光〕「もしや、何か発見いたすこともありましょうかと、ちょっとした機会を作って、手紙などを出してみました。
 書きなれている筆跡で、素早く返事などを寄こしました。
 たいして悪くはない若い女房たちがいるようでございます」
50  と聞こゆれば、  と申し上げると、
51  〔源氏〕「なほ言ひ寄れ。
 尋ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「さらに近づいてみよ。
 突き止めないでは、きっと物足りない気がしよう」とおっしゃる。
 
52  かの、下が下と、人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。
 
 あの、下層の最下層だと、頭中将が見下した住まいであるが、その中にも、意外に結構な女を見つけたらばと、心惹かれてお思いになるのであった。
 
 
 

第二章 空蝉の物語

 
 

第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す

 
53  さて、かの空蝉の、あさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しき過ちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなむを、心にかからぬ折なし。
 かやうの並々までは、思ほしかからざりつるを、ありし「雨夜の品定め」の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。
 
 ところで、あの空蝉の、あきれるほど冷淡だったのを、今の世間一般の女性とは違っているとお思いになると、素直であったならば、気の毒な過ちをしたと思ってやめられようが、まことに悔しく、振られて終わってしまいそうなのが、気にならない時がない。
 このような並の女性までは、お思いにならなかったのだが、先日の「雨夜の品定め」の後は、興味をお持ちになった階層それぞれの女がいることに、ますます残る隈なくご関心をお持ちになったようである。
 
54  うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、「まづ、こなたの心見果てて」と思すほどに、伊予介上りぬ。
 
 疑いもせずに君をお待ち申しているもう一人の女を、いじらしいとお思いにならないわけではないが、何くわぬ顔で聞いていたろうことが恥ずかしいので、「まずは、この女の気持ちを見定めてから」とお思いになっているうちに、伊予介が上京してきた。
 
55  まづ急ぎ参れり。
 舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。
 されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける。
 
 介はまっさきに急いで参上した。
 船路のせいで、少し黒く日焼けしている旅姿は、とてもぶこつで気に入らない。
 けれど、人品も相当な血筋で、容貌などは年をとってはいるが、小綺麗で、普通の人とは違って、風雅のたしなみなどがそなわっているのであった。
 
56  国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることも、さまざまなり。
 
 任国の話などを申し上げるので、「伊予の湯の湯桁はいくつあるか」と、お尋ねしたくお思いになるが、わけもなく正視できなくて、お心の中に思い出されることも、さまざまである。
 
57  〔源氏〕「ものまめやかなる大人を、かく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。
 げに、これぞ、なのめならぬ片はなべかり(校訂06)ける」と、馬頭の諌め思し出でて、いとほしきに、「つれなき心はねたけれど、人のためは、あはれ」と思しなさる。
 
 〔源氏〕「実直な年配者を、このように思うのも、いかにも馬鹿らしく後ろ暗いことであるよ。
 いかにも、これが、尋常ならざる不埒なことだった」と、左馬頭の忠告をお思い出しになって、気の毒なので、「女の冷淡な気持ちは憎いが、夫のためには、立派だ」とお考え直しになる。
 
58  「娘をばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし」と、聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、「今一度は、えあるまじきことにや」と、小君を語らひたまへど、人の心を合せたらむことにてだに、軽らかにえしも紛れたまふまじきを、まして、似げなきことに思ひて、今さらに見苦しかるべし、と思ひ離れたり。
 
 「娘を適当な人に縁づけて、北の方を連れて任国に下るつもりだ」と、お聞きになると、あれやこれやと気持ちが落ち着かなくて、「もう一度逢うことができないものだろうか」と、小君に相談なさるが、たとい相手が同意したようなことでさえ、軽々とお忍びになるのは難しいのに、まして、相応しくない関係と思って、今さら見苦しかろうと、思い絶っていた。
 
59  さすがに、絶えて思ほし忘れなむことも、いと言ふかひなく、憂かるべきことに思ひて、さるべき折々の御答へなど、なつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに、目とまるべきふし加へなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。
 
 だがそうは言っても女は、すっかりお忘れになられることも、まことにつまらなく、嫌にちがいないことと思って、しかるべき折々のお返事などには、親しく度々差し上げては、その何気ない書きぶりに詠み込まれた返歌などは、不思議とかわいらしげに、お目に止まるようなことを書き加えなどして、恋しく思わずにはいられない人の様子なので、源氏の君は冷淡で癪な女と思うものの、忘れがたい人とお思いになっている。
 
60  いま一方は、主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまへど、御心も動かずぞありける。
 
 もう一人は、たとい夫が決まったとしても、変わらず心を許しそうに見えたのを当てにして、いろいろと噂をお聞きにはなるが、お心も動かさないのであった。
 
 
 

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語

 
 

第一段 霧深き朝帰りの物語

 
61  秋にもなりぬ。
 人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には、絶え間置きつつ、恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり。
 
 秋にもなった。
 誰のせいからでもなく、自ら求めての物思いに、心を尽くされることどもがあって、大殿邸には、と絶えがちのお通いなので、恨めしくばかりお思い申し上げていらっしゃった。
 
62  六条わたりにも、とけがたかりし御気色を、おもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし。
 されど、よそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなることにかと見えたり。
 
 六条辺りの御方にも、気の置けたころのご様子を、お靡かせ申し上げてから後は、うって変わって、通り一遍なお扱いのようなのは気の毒である。
 けれど、他人でいたころのご執心のように、無理無体なことがないのも、どうしたことかと思われた。
 
63  女は、いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。
 
 この女性は、たいそうものごとを度を越すほどに、深くお思い詰めなさるご性格なので、年齢も釣り合わず、人が漏れ聞いたら、ますますこのような辛い君のお越しにならない夜な夜なの寝覚めに、お悩み悲しまれることが、とてもあれこれと多いのである。
 
64  霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色に、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、御几帳引きやりたれば、御頭もたげて見出だしたまへり。
 
 霧のたいそう深い朝、ひどくせかされなさって、眠そうな様子で、溜息をつきながら部屋をお出になるのを、中将のおもとが御格子を一間上げて、源氏の君をお見送りなさいませ、という心遣いらしく、御几帳を引き開けたので、女君は御頭をもち上げて外の方へ目をお向けになっていらっしゃる。
 
65  前栽の色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。
 廊の方へおはするに、中将の君、御供に参る。
 紫苑色の折にあひたる、羅の裳、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。
 
 前栽の花が色とりどりに咲き乱れているのを、見過ごしがたそうにためらっていらっしゃる君の姿が、評判どおり二人といない美しさである。
 渡廊の方へいらっしゃるので、中将の君がお供申し上げる。
 紫苑色で季節に適った薄絹の裳、それをくっきりと結んだ腰つきは、しなやかで優美である。
 
66  見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばし、ひき据ゑたまへり。
 うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくも、と見たまふ。
 
 源氏の君は振り返りなさって、隅の間の高欄に少しの間、中将の君をお座らせになった。
 きちんとした態度、黒髪のかかり具合を、見事なものよ、と君は御覧になる。
 
 

28
 〔源氏〕
 「咲く花に 移るてふ名は つつめども
 折らで過ぎ憂き 今朝の朝顔
 〔源氏〕
「美しく咲いている花のようなそなたに心を移したという評判は憚られますが
  やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です
 
67  いかがすべき」  どうしたらよかろうか」
68  とて、手をとらへたまへれば、いと馴れて、とく、  と言って、中将の君の手を捉えなさると、まことに物馴れたふうに素早く、
 

29
 〔中将君〕
 「朝霧の 晴れ間も待たぬ 気色にて
 花に心を 止めぬとぞ見る」
 〔中将君〕
「朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので
 朝顔の花に心を止めていないものと思われます」
 
69  と、おほやけごとにぞ聞こえなす。
 
 と、主人のことにしてお返事申し上げる。
 
70  をかしげなる侍童の、姿このましう、ことさらめきたる、指貫、裾、露けげに、花の中に混りて、朝顔折りて参るほどなど、絵に描かまほしげなり。
 
 かわいらしい男童で、姿が目安く格別の格好をしているのが、指貫、その裾を、露っぽく濡らして、花の中に入り混じって、朝顔を手折って差し上げるところなどは、絵に描きたいほどである。
 
71  大方に、うち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。
 物の情け知らぬ山がつも、花の蔭には、なほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、我がかなしと思ふ女を、仕うまつらせばやと願ひ、もしは、口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、卑しきにても、なほ、この御あたりにさぶらはせむと、思ひ寄らぬはなかりけり。
 
 通り一遍に、ちょっと拝見する人でさえ、源氏の君に心を止め申さない者はない。
 物の情趣を解さない樵人も、花の下では、やはり休息したいものではないか、このお美しさを拝する人びとは、身分身分に応じて、自分のかわいいと思う娘を、ご奉公に差し上げたいと願い、あるいは恥ずかしくないと思う姉妹などを持っている人は、下仕えであってもやはりこのお方の側にご奉公させたいと、思わない者はいなかった。
 
72  まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこし物の心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ。
 明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。
 
 まして、何かの折のお言葉でも、優しいお姿を拝する人で、少し物の情趣を解せる人は、どうしていい加減にお思い申し上げよう。
 そうした源氏の君が一日中くつろいだご様子でおいでではないのを、物足りなく不満なことと思うようである。
 
 
 

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語

 
 

第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う

 
73  まことや、かの惟光が預かりのかいま見は、いとよく案内見とりて申す。
 
 それはそうと、あの惟光が受け持ちの偵察は、とても詳しく事情を探ってご報告する。
 
74 〔惟光〕「その人とは、さらにえ思ひえはべらず(校訂07)。
 人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ、見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋に、わたり来つつ、車の音すれば、若き者どもの覗きなどすべかめるに、この主とおぼしきも、はひわたる時はべかめる。
 容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。
 
 〔惟光〕「誰であるかは、まったく分かりません。
 世間にひどく隠れ潜んでいる様子に見えますが、所在なさにまかせて、南側の半蔀のある長屋に移って来ては、牛車の音がすると、若い女房たちが覗き見などをするようですが、この主人と思われる女も、そろそろと来る時があるようでございまして。
 容貌は、ぼんやりとではありますが、とてもかわいらしゅうございます。
 
75  一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、覗きて、童女の急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまへ。
 中将殿こそ、これより渡りたまひぬれ』と言へば、また、よろしき大人出で来て、〔右近〕『あなかま』と、手かくものから、『いかでさは知るぞ、いで、見む』とて、はひ渡る。
 打橋だつものを道にてなむ、通ひはべる。
 急ぎ来るものは、衣の裾を物に引きかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗きの心も冷めぬめりき。
 〔童女〕『君は、御直衣姿にて、御随身どももありし。
 なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童をなむ、しるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、
 先日、先払いをして通る牛車がございましたのを覗き見て、女童が急いで、『右近の君さん、早く御覧なさい。
 中将殿が、ここを通り過ぎて行っておしまいになります』と言うと、もう一人の見苦しくない女房が出て来て、『お静かに』と、手で制しながらも、『どうしてそうと分かりましたか、どれ、見てみましょう』と言って、渡って来ます。
 打橋のようなものを通路にして、行き来するのでございます。
 急いで来る者は、衣の裾を何かに引っ掛けてよろよろと倒れて、打橋から落ちてしまいそうになったので、『まあ、この葛城の神は、何とも危なっかしく拵えたこと』と文句を言って、覗き見の興味も冷めてしまったようでした。
 『頭の君は、直衣姿で、御随身たちもいましたが。
 あの人は誰、この人は誰』と数えたのは、頭中将の随身や、その小舎人童を、証拠に言ってのでした」などと申し上げると、
76  〔源氏〕「たしかにその車をぞ見まし」  〔源氏〕「確かにその車を見たのならよかったのに」
77  とのたまひて、「もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、  とおっしゃって、「もしや、あの頭中将が愛しく忘れ難かった女であろうか」と、思いつかれるにつけても、とても知りたげなご様子を見て、
78  〔惟光〕「私の懸想もいとよくしおきて、案内も残るところなく見たまへおきながら、ただ、我れどちと知らせて、物など言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてなむ、隠れまかり(校訂08)歩く。
 いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが言誤りしつべきも、言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひてつくりはべる」など、語りて笑ふ。
 
 〔惟光〕「わたくし自身の懸想も首尾よく致しまして、家の内情もすっかり存じておりますが、相手の女は、ただ、同じ同輩どうしの女がいるだけだと思わせて、話しかけてくる若い近習がございますので、わたしも空とぼけたふりして、こっそりと隠れて通っています。
 とてもうまく隠していると思って、小さい子供などのございますのが言い間違いそうになるのも、ごまかして、別に主人のいない様子を無理に装っております」などと、話して笑う。
 
79  〔源氏〕「尼君の訪ひにものせむついでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。
 
 〔源氏〕「尼君のお見舞いに伺った折に、垣間見させよ」とおっしゃるのであった。
 
80  かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「これこそ、かの人の定め、あなづりし下の品ならめ。
 その中に、思ひの外にをかしきこともあらば」など、思すなりけり。
 
 一時的であるにせよ、住んでいる家の程度を思うと、「これこそ、あの左馬頭が判定して、貶んだ下の品であろう。
 その中に、予想外におもしろい事があったら」などと、お思いになるのであった。
 
81  惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせ初めてけり。
 このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。
 
 惟光は、どんな些細なことでも君のお心に違うまいと思うが、自分も抜けめのない好色人なので、大変に策を労しあちこち段取りをつけて、しゃにむに君をお通わし始めさせたのであった。
 この辺の事情は、こまごまと煩わしくなるので、例によって省略した。
 
82  女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ちありきたまふは、おろかに思されぬなるべし、と見れば、我が馬をばたてまつりて、御供に走りありく。
 
 源氏の君は、女をはっきり誰とお確かめになれないので、ご自分も名乗りをなさらず、ひどくむやみに粗末な身なりをなさっては、いつもと違って直接に身を入れてお通いになるのは、並々ならぬご執心なのであろう、と惟光は考えると、自分の馬を差し上げて、お供して走りまわる。
 
83  〔惟光〕「懸想人のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくもあるべきかな(校訂09)」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率ておはしける。
 「もし思ひよる気色もや」とて、隣に中宿をだにしたまはず。
 
 〔惟光〕「懸想人のひどく人げない徒ち歩き姿を、見つけられましては、辛いものですね」とこぼすが、誰にもお知らせなさらないことにして、あの夕顔の案内をした随身だけ、その他には、顔をまったく知られてないはずの童一人だけを、連れていらっしゃるのであった。
 「万一思い当たる気配もあろうか」と慮って、隣の大弐宅にお立ち寄りさえなさらない。
 
84  女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御在処見せむと尋ぬれど、そこはかとなくまどはしつつ、さすがに、あはれに見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、便なく軽々しきことと、思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。
 
 女の方も、とても不審に合点のゆかない気ばかりがして、お文使いに跡を付けさせたり、夜明けの帰り道を尾行させて、お住まいを探らせようと追跡するが、どこと分からなく晦まし晦ましして、しかしそうは言っても、かわいく逢わないではいられず、この女がお心に掛かって離れないので、不都合で軽々しい行為だと、反省してはお困りながらも、とても頻繁にお通いになる。
 
85  かかる筋は、まめ人の乱るる折もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。
 いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思す。
 
 このような方面では、実直な男も乱れる時があるものだが、君はとても見苦しくなく自重なさって、人が非難申し上げるような振る舞いはなさらなかったが、不思議なまでに、今朝の分かれてきた合い間、昼間の逢わないでいる合い間も、気が気でないほどに逢いたくお思い悩みになるので、他方では、ひどく気違いじみており、それほど熱中するに相応しいことではないと、つとめて熱をお冷ましになろうとするが、女の感じは、とても驚くほど従順でおっとりとしていて、物事に思慮深く慎重な方面は少なくて、一途に子供っぽいようでいながら、男女の仲を知らないでもない。
 たいして高い身分ではあるまい、どこにひどくこうまで心惹かれるのだろうか、と繰り返しお思いになる。
 
86  いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣をたてまつり(校訂10)、さまを変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけむものの変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ(校訂11)、はた、手さぐりもしるべきわざなりければ、「誰ればかりにかはあらむ。
 なほこの好き者のし出でつるわざなめり」と、大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひよらぬさまに、たゆまずあざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女方も、あやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。
 
 とてもわざとらしくして、ご装束も粗末な狩衣をお召しになり、姿を変えて、顔も少しもお見せにならず、深夜ごろに、人の寝静まるのを待ってお出入りなどなさるので、昔あったという変化の者じみて、女は気味悪く嘆息されるが、男性のご様子は、そうは言うものの、手触りでも分かることができたので、「いったい、どなたであろうか。
 やはりあの好色人が手引きして始まったことらしい」と、惟光大夫を疑ってみるが、つとめて何くわぬ顔を装って、まったく知らない様子に、せっせと色恋に励んでいるので、どのようなことかとわけが分からず、女の方でも、不思議な一風変わった物思いをするのであった。
 
 
 

第二段 八月十五夜の逢瀬

 
87  君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、いづこをはかりとか、我も尋ねむ。
 かりそめの隠れ処と、はた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも、移ろひゆかむ日を、いつとも知らじ」と思すに、「追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてむ」と思されず、と、人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「なほ誰れとなくて、二条院に迎へてむ。
 もし聞こえありて、便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。
 我が心ながら、いとかく人にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など、思ほしよる。
 
 源氏の君も、「このように無心なように油断させてそっと隠れてしまったなら、どこを目当てにしてか、わたしも尋ねられよう。
 一時の隠れ家と、また一方では思われるので、どこへともどこへとも、移って行くような日を、いつとも分からないだろう」とお思いになると、「跡を追っているうちに見失って、どうでもよく諦めがつくものなら、ただこのような遊び事で終わっても済まされることなのに、まったくそうして過そう」とはお思いになれないと、人目をお憚りになって、お通いになれない夜な夜ななどは、とても我慢ができず、苦しいまでに思われなさるので、「やはり誰とも知らせずに、二条院に迎えてしまおう。
 もし世間に評判になって、不都合なことであっても、そうなるはずの運命なのだ。
 我ながら、ひどくこんなに女に惹かれることはなかったのに、どのような宿縁であったのだろうか」などと、お考え至りになる。
 
88  〔源氏〕「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」  〔源氏〕「さあ、とても気楽な所で、のんびりとお話し申すことにしよう」
89  など、語らひたまへば、  などと、お誘いになると、
90  〔夕顔〕「なほ、あやしう。
 かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」
 〔夕顔〕「やはり、変でございすわ。
 そうおっしゃいますが、普通とは違ったお持てなしなので、何となく空恐ろしい気がしますわ」
91  と、いと若びて言へば、「げに」と、ほほ笑まれたまひて、  と、とても子供っぽく言うので、「なるほど」と、思わずにっこりなさって、
92  〔源氏〕「げに、いづれか狐なるらむな。
 ただはかられたまへかし」
 〔源氏〕「なるほど、どちらが狐でしょうかね。
 ただ、化かされていらっしゃいな」
93  と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。
 「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふに、なほ、かの頭中将の常夏疑はしく、語りし心ざま、まづ思ひ出でられたまへど、「忍ぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出でたまはず。
 
 と、優しそうにおっしゃると、女もすっかりその気になって、そうであってもいいと思っている。
 「世間に例のない、不都合なことであっても、一途に従順な心は、実にかわいい女だ」と、ご覧になると、やはり、あの頭中将の常夏の女かと疑われて、話された性質、それをまっさきにお思い出さずにはいらっしゃれないが、「きっと隠すような事情があるのだろう」と、むやみにお聞き出しなさらない。
 
94  気色ばみて、ふと背き隠る(校訂12)べき心ざまなどはなければ、「かれがれにとだえ置かむ折こそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ」とさへ、思しけり。
 
 表情に現して、不意に逃げ隠れするような性質などはないので、「夜離れに、絶え間を置いたような折には、そのように気を変えることもあろうが、むしろ女のほうに少し浮気することがあったほうがかえって愛情も増さるであろう」とまで、お思いになった。
 
95  八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏り来て、見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、  八月十五日夜の、満月の光が、隙間の多い板葺きの家に、すっかり射し込んで来て、ご経験のない住居の様子も珍しいが、夜明け近くなったのであろう、隣の家々から、賤しい男たちの声々が、目を覚まして、
96  〔隣人〕「あはれ、いと寒しや」  〔隣人〕「ああ、ひどく寒いことよ」
97  〔隣人〕「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。
 北殿こそ、聞きたまふや」
 〔隣人〕「今年は、商売も当てになる所も少なく、田舎への行き来も望めないから、ひどく心細いなあ。
 北隣さん、お聞きなさっているか」
98  など、言ひ交はすも聞こゆ。
 
 などと、言い交わしているのも聞こえる。
 
99  いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。
 
 まことにほそぼそとした各自の生計のために起き出して、ざわめいているのも間近なのを、女はとても恥ずかしく思っている。
 
100  艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。
 されど、のどかに、つらきも憂きもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、我がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかかやかむよりは、罪許されてぞ見えける。
 
 風流ぶって気取りたがるような人には、消え入りたいほどの住居の様子のようである。
 けれでも、のんびりと、辛いことも嫌なことも気恥ずかしいことも、苦にしている様子でなく、自身の態度や様子は、とても上品でおっとりして、またとないくらい下品な隣家のぶしつけさを、どのようなこととも知っている様子でないので、かえって恥ずかしがり赤くなるよりは、罪がないように思われるのであった。
 
101  ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく、踏み轟かす唐臼の音も、枕上とおぼゆる。
 「あな、耳かしかまし」と、これにぞ思さるる。
 何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。
 くだくだしきことのみ多かり。
 
 ごろごろと鳴る雷よりも騒がしく、踏み轟かす唐臼の音も、枕元に聞こえる。
 「ああ、やかましい」と、これには閉口されなさる。
 何の響きともお分りにならず、とても不思議で耳障りな音だとばかりお聞きになる。
 ごたごたしたことばかり多かった。
 
102  白妙の衣うつ砧の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びがたきこと多かり。
 端近き御座所なりければ、遣戸を引き開けて、もろともに見出だしたまふ。
 ほどなき庭に、されたる呉竹(校訂13)、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。
 虫の声々乱りがはしく、壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。
 
 白妙の衣を打つ砧の音も、かすかにあちらこちらからと聞こえて来て、空を飛ぶ雁の声も、一緒になって、堪えきれない情趣が多い。
 端近いご座所だったので、遣戸を引き開けて、一緒に外を御覧になる。
 広くもない庭に、しゃれた呉竹や、前栽の露は、やはりこのような所も同じように光っていた。
 虫の声々が入り乱れ、壁の内側のこおろぎでさえ、時たまお聞きになっているお耳に、じかに押し付けたように鳴き乱れているのを、かえって違った感じにお思いなさるのも、女へのお気持ちの深さゆえに、すべての欠点が許されるのであろうよ。
 
103  白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。
 心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、
 白い袷に、薄紫色の柔らかい衣を重ね着て、地味な姿態は、とてもかわいらしげに華奢な感じがして、どこそこと取り立てて優れた所はないが、か細くしなやかな感じがして、何かちょっと言った感じは、「ああ、いじらしい」と、ただもうかわいく思われる。
 気取ったところをもう少し加えたらと、御覧になりながら、なおもくつろいで逢いたく思われなさるので、
104  〔源氏〕「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。
 かくてのみは、いと苦しかりけり」とのたまへば、
 〔源氏〕「さあ、ちょっとこの辺の近い所で、気楽に夜を明かそう。
 こうしてばかりいては、とても辛いなあ」とおっしゃると、
105  〔夕顔〕「いかで、にはかならむ」  〔夕顔〕「どうしてそんな。
 急でしょう」
106  と、いとおいらかに言ひてゐたり。
 この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所も、え憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。
 このある人びとも、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。
 
 と、とてもおっとりと言って、じっとしている。
 この世だけでない来世の約束などまで相手に期待させなさると、心を許してくる心根などが、不思議に普通と違って、世慣れた女とも思われないので、他人がどう思うかを慮ることもおできになれず、右近を召し出して、随身をお呼ばせになって、お車を引き入れさせなさる。
 この家の女房たちも、このようなお気持ちが並大抵でないことが分かるので、不安に思いながらも、期待をおかけ申していた。
 
107  明け方も近うなりにけり。
 鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。
 起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。
 いとあはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」と、聞きたまふ。
 「南無当来導師」とぞ拝むなる。
 
 夜明けも近くなってしまった。
 鶏の声などは聞こえないで、御嶽精進であろうか、ただ老人めいた声で礼拝するのが聞こえる。
 立ったり座ったりの様子、難儀そうに勤行する。
 たいそうしみじみと、「朝の露と違わないはかないこの世なのに、何を欲張ってわが身の利益を祈るのだろうか」と、お聞きになる。
 「南無当来導師、弥勒菩薩」と言って拝んでいるようだ。
 
108  〔源氏〕「かれ、聞きたまへ。
 この世とのみは思はざりけり」と、あはれがりたまひて、
 〔源氏〕「あれを、お聞きなさい。
 この世だけとは思っていないのだね」と、しみじみと感じられて、
 

30
 〔源氏〕
「優婆塞が 行ふ道を しるべにて
 来む世も深き 契り違ふな」
 〔源氏〕
「優婆塞が勤行しているのを道しるべにして
  来世にも深い約束に背かないで下さい」
 
109  長生殿の古き例(奥入02・自筆奥入05)はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。
 行く先の御頼め、いとこちたし。
 
 長生殿の昔の例は縁起が悪いので、翼を交そうとは言わずに、弥勒菩薩が出現する未来までの愛を約束なさる。
 そのような長いお約束とは、まことに大げさである。
 
 

31
 〔夕顔〕
「前の世の 契り知らるる 身の憂さに
 行く末かねて 頼みがたさよ」
 〔夕顔〕
「前世の宿縁の拙さが身につまされるので
  来世まではとても頼りかねます」
 
110  かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。  このような返歌のし方なども、実のところ、心細いようである。
 
 

第三段 なにがしの院に移る

 
111  いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。
 はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。
 
 ためらっている月のように、出し抜けに行く先も分からず出かけることを、女は躊躇し、いろいろと説得なさるうちに、急に雲に隠れて、明け行く空は実に美しい。
 体裁の悪くなる前にと、いつものように急いでお出ましになって、軽々とお乗せになったので、右近が一緒に乗った。
 
112  そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。
 霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
 
 その辺りに近い某院にお着きになって、管理人をお呼び出しになる間、荒れた門の忍草が生い茂っていて見上げられるのが、譬えようなく木暗い。
 霧も深く、露っぽいところに、車の簾までを上げていらっしゃるので、お袖もひどく濡れてしまった。
 
113  〔源氏〕「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。
 
 〔源氏〕「まだこのようなことを経験しなかったが、いろいろと気をもむことであるなあ。
 
 

32
 いにしへも かくやは人の 惑ひけむ
 我がまだ知らぬ しののめの道
  昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
  わたしには経験したことのない明け方の道だ
 
114  慣らひたまへりや」  ご経験なさいましたか」
115  とのたまふ。
 女、恥ぢらひて、
 とおっしゃる。
 女は、恥ずかしがって、
 

33
 〔夕顔〕
「山の端の 心も知らで 行く月は
 うはの空にて 影や絶えなむ
 〔夕顔〕
「山の端をどことも知らないで随って行く月は
 途中で光が消えてしまうのではないでしょうか
 
116  心細く」  心細くて」
117  とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。
 
 と言って、何となく怖がって気味悪そうに思っているので、「あの建て込んでいる小家に住み慣れているからだろう」と、おもしろくお思いになる。
 
118  御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。
 右近、艶なる心地(校訂14)して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。
 預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。
 
 お車を院内に引き入れさせて、西の対にご座所などを準備する間、高欄にお車の轅を掛けて待っていらっしゃる。
 右近は、心浮き立つ優美な心地がして、過去のことなども、一人思い出すのであった。
 管理人が一生懸命に奔走している様子から、この君のご身分をすっかり知った。
 
119  ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。
 かりそめなれど、清げにしつらひたり。
 
 ほのかに物が見えるころに、車からお降りになったようである。
 仮ごしらえだが、こざっぱりと設けてある。
 
120  〔下家司〕「御供に人もさぶらはざりけり。
 不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、
 〔下家司〕「お供にどなたもお仕えいたしておりませんな。
 不都合なことですな」と言って、親しい下家司で、大殿にも仕えている者だったので、参り寄って、「しかるべき人を、お呼びなさるべきではありませんか」などと、右近をして申し上げさせるが、
121  〔源氏〕「ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり(校訂15)。
 さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。
 
 〔源氏〕「特に人の来ないような隠れ家を求めたのだ。
 決して他人には言うな」と口封じさせなさる。
 
122  御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。
 まだ知らぬことなる御旅寝に、「息長川(自筆奥入06)」と契りたまふことよりほかのことなし。
 
 お粥などを準備して差し上げたが、取り次ぐお給仕が揃わない。
 まだ経験のないご外泊に、「鳰鳥の息長川」のようにいつまでも長くとお約束なさること以外ない。
 
123  日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。
 いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。
 け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野ら(校訂16)にて、池も水草に埋もれたれば、いとけうとげに(校訂17)なりにける所かな。
 別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。
 
 日が高くなったころにお起きになって、格子を自らお上げになる。
 とてもひどく荒れて、人影もなく広々と見渡されて、木立がとても気味悪く鬱蒼と古びている。
 側近くの草木などは、格別見所もなく、すっかり秋の野原となって、池も水草に埋もれているので、まことに恐ろしくなってしまった所であるよ。
 別納の方に、部屋などを設えて、番人が住んでいるようだが、こちらは離れている。
 
124  〔源氏〕「けうとくも(校訂18)なりにける所かな。
 さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「気味悪そうになってしまった所だね。
 いくら何でも、鬼などもわたしならきっと見逃すだろう」とおっしゃる。
 
125  顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、  お顔は依然として隠していらっしゃるが、女がとても辛いと思っているので、「なるほど、これ程深い仲になって隠しているようなのも、男女のあるべきさまと違っている」とお思いになって、
 

34
 〔源氏〕
「夕露に 紐とく花は 玉鉾の
 たよりに見えし 縁にこそありけれ
 〔源氏〕
「夕べの露を待って花開いて顔をお見せするのは
  道で出逢った縁からなのですよ
 
126  露の光やいかに」  露の光はどうですか」
127  とのたまへば、後目に見おこせて、  とおっしゃると、流し目に見やって、
 

35
 〔夕顔〕
 「光ありと 見し夕顔の うは露は
 たそかれ時の そら目なりけり」
 〔夕顔〕
「光輝いていると見ました夕顔の上露は
 たそがれ時の見間違いでした」
 
128  とほのかに言ふ。
 をかしと思しなす。
 げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。
 
 とかすかに言う。
 おもしろいとお思いになる。
 なるほど、うちとけていらっしゃる君のご様子は、またとなく、場所が場所ゆえ、いっそう不吉なまでにお美しくお見えになる。
 
129  〔源氏〕「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。
 今だに名のりしたまへ。
 いとむくつけし」
 〔源氏〕「いつまでも隠していらっしゃる辛さに、顔を顕すまいと思っていたが。
 せめて今からでもお名乗り下さい。
 とても気味が悪い」
130  とのたまへど、〔夕顔〕「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。
 
 とおっしゃるが、〔夕顔〕「卑しい海人の子なので」と言って、依然としてうちとけない態度は、とても甘え過ぎている。
 
131  〔源氏〕「よし、これも『我から』なめり」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。
 
 〔源氏〕「それでは、これも『われから』のようだ」と、怨みまた一方では睦まじく語り合いながら、一日お過ごしになる。
 
132  惟光、尋ねきこえて、御くだものなど参らす。
 右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。
 「かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、〔惟光〕「我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。
 
 惟光が、お探し申して、お菓子などを差し上げさせる。
 右近が文句言うことは、やはり気の毒なので、お側に伺候することもできない。
 「こんなにまでご執心でいられるのは、魅力的で、きっとそうに違いない様子なのだろう」と推量するにつけても、〔惟光〕「自分がうまく言い寄ろうと思えばできたのを、お譲り申して、なんと寛大なことよ」などと、失敬なことを考えている。
 
133  たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。
 夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。
 つと御かたはらに添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。
 格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、〔源氏〕「名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。
 
 譬えようもなく静かな夕方の空をお眺めになって、奥の方は暗く何となく気味が悪いと、女は思っているので、端の簾を上げて、添い臥していらっしゃる。
 夕映えのお顔を互いに見交わして、女も、このような出来事を、意外に不思議な気持ちがする一方で、すべての嘆きを忘れて、少しずつ打ち解けていく様子は、実にかわいい。
 ぴったりとお側に一日中添ったままで、何かをとても怖がっている様子は、子供っぽくいじらしい。
 格子を早くお下ろしになって、大殿油を点灯させて、〔源氏〕「すっかり深い仲となったご様子でいて、依然として心の中に隠し事をなさっているのが辛い」と、お恨みになる。
 
134  「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「あやしの心や。
 六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ。
 恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。
 何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、思ひ比べられたまひける。
 
 「主上には、どんなにかお探しあそばしているだろうから、人々はどこを探しているだろうか」と、思いをおはせになって、また一方では、「不思議な気持ちだ。
 六条辺りでも、どんなにお思い悩んでいらっしゃることだろう。
 怨まれることも、辛いことだし、もっともなことだ」と、おいたわしい方としては、まっさきにお思い出し申し上げなさる。
 無心に向かい合って座っているこの女を、かわいいとお思いになるにつれて、「あの方の、あまりに思慮深く、対座するわたしまでが息が詰るようなご様子を、少しは取り除いてほしいものだ」と、ついご比較されるのであった。
 
 
 

第四段 夜半、もののけ現われる

 
135  宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、  宵を過ぎるころ、少し寝入りなさった頃に、おん枕上に、とても美しそうな女が座って、
136  〔もののけ〕「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」  〔もののけ〕「わたしがあなたをとても素晴らしいとお慕い申し上げているそのわたしには、お訪ねもなさらず、このような、特に優れたところもない女をお連れになって、かわいがっていらっしゃるのは、まことに癪にさわって恨めしい」
137  とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
 
 と言って、自分のお側の人を引き起こそうとしている、と御覧になる。
 
138  物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。
 うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。
 これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
 
 魔物に襲われるような気持ちがして、目をお覚ましになると、灯火も消えていた。
 気持ち悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて、傍にお置きになって、右近をお起こしになる。
 この人も怖がっている様子で、参り寄った。
 
139  〔源氏〕「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、  〔源氏〕「渡殿にいる宿直人を起こして、『紙燭をつけて参れ』と言いなさい」とおっしゃると、
140  〔右近〕「いかでかまからむ。
 暗うて」と言へば、
 〔右近〕「どうして行けましょうか。
 暗くて」と言うので、
141  〔源氏〕「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。
 人え聞きつけで(校訂19)参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。
 汗もしとどになりて、我かの気色なり。
 
 〔源氏〕「ああ、子供みたいな」と、ちょっとお笑いになって、手をお叩きになると、こだまが応える音、まことに気味が悪い。
 誰も聞きつけないで参上しないので、この女君は、ひどくふるえ脅えて、どうしてよいか分からなく思っている。
 汗もびっしょりになって、正気を失った様子である。
 
142  〔右近〕「物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。
 「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
 〔右近〕「むやみにお怖がりあそばすご性質ですから、どんなにかお怖がりのことでしょうか」と、右近も申し上げる。
 「ほんとうにか弱くて、昼も空ばかり見ていたものだな、気の毒に」とお思いになって、
143  〔源氏〕「我、人を起こさむ。
 手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。
 ここに、しばし、近く」
 〔源氏〕「わたしが、誰かを起こそう。
 手を叩くと、こだまが応える、まことにうるさい。
 こちらに、しばらくは、近くへ」
144  とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。
 
 と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸に出て、戸を押し開けなさると、渡殿の火も既に消えていた。
 
145  風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。
 この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。
 召せば、御答へして起きたれば、
 風がわずかに吹いているうえに、人気も少なくて、仕えている者は皆寝ていた。
 この院の管理人の子供で、親しくお使いになる若い男、それから殿上童一人と、いつもの随身だけがいるのであった。
 お呼び寄せになると、お返事して起きたので、
146  〔源氏〕「紙燭さして参れ。
 『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。
 人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。
 惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、
 〔源氏〕「紙燭を点けて持って参れ。
 『随身にも、弦打ちをして、絶えず音を立てていよ』と命じよ。
 人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。
 惟光朝臣が来ていたようなのは」と、お尋ねあそばすと、
147  〔管理人子〕「さぶらひつれど、仰せ言もなし。
 暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。
 この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司(校訂20)の方に去ぬなり。
 内裏を思しやりて、「名対面(自筆奥入13)は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。
 
 〔管理人子〕「控えていましたが、ご命令もない。
 早朝にお迎えに参上すべき旨を申して、退出してしまいました」と申し上げる。
 この、こう申す者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れた様子に打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ行ったようだ。
 内裏をお思いやりになって、「名対面は過ぎたろう、滝口の宿直奏しは、ちょうど今ごろか」と、ご推量になるのは、まだ、さほど夜も更けていないのであろう。
 
148  帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
 
 君は部屋に入り戻って、お確かめになると、女君はそのままに臥していて、右近は傍らにうつ伏していた。
 
149  〔源氏〕「こはなぞ。
 あな、もの狂ほしの物怖ぢや。
 荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。
 まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。
 
 〔源氏〕「これはどうしたことか。
 何とも、気違いじみた怖がりようだ。
 荒れた所には、狐などのようなものが、人を脅かそうとして、怖がらせるのだろう。
 わたしがいるからには、そのようなものからは脅されないぞ」と言って引き起こしなさる。
 
150  〔右近〕「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。
 御前にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
 〔右近〕「とても気味が悪くて、取り乱している気分も悪うございますので、うつ伏しているのでございますよ。
 ご主人さまは、ひどく怖がっていらっしゃるでしょう」と言うので、
151  〔源氏〕「そよ。
 などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。
 引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
 
 〔源氏〕「そうよ。
 どうしてこんなにまで」と言って、探って御覧になると、息もしていない。
 揺すって御覧になるが、ぐったりとして、正体もない様子なので、「ほんとうにひどく子供じみた人なので、魔性のものに魅入られてしまったらしい」と、なすべき方法もない気がなさる。
 
152  紙燭持て参れり。
 右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
 紙燭を持って参った。
 右近も動ける状態でないので、近くの御几帳を引き寄せて、
153  〔源氏〕「なほ持て参れ」  〔源氏〕「もっと近くに持って参れ」
154  とのたまふ。
 例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえ上らず。
 
 とおっしゃる。
 いつもと違ったことなので、御前近くに参上できず、ためらっていて、長押にも上がれない。
 
155  〔源氏〕「なほ持て来や、所に従ひてこそ」  〔源氏〕「もっと近くに持って来なさい。
 場合によるぞ」
156  とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え(校訂21)失せぬ。
 
 と言って、召し寄せて御覧になると、ちょうどこの枕上に、夢に現れた姿をしている女が、幻影のように現れて、ふっと消え失せた。
 
157  「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、〔源氏〕「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。
 言はむかたなし。
 頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。
 法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。
 さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
 「昔の物語などに、このようなことは聞くけれど」と、まことに珍しく気味が悪いが、まず、「この女はどのようになったのか」とお思いになる不安に、わが身の上の危険もお顧みにならず、添い臥して、「もし、もし」と、お起こしになるが、すっかりもう冷たくなっていて、息はとっくにこと切れてしまっていたのであった。
 どうすることもできない。
 頼りになる、どうしたらよいかとご相談できるような方もいない。
 法師などは、このような時の頼みになる人とはお思いになるが。
 それほどお強がりになるが、お若い考えで、空しく死んでしまったのを御覧になると、どうしようもなくて、ひしと抱いて、
158  〔源氏〕「あが君、生き出でたまへ。
 いといみじき目、な見せたまひそ」
 〔源氏〕「おまえさま、生き返っておくれ。
 わたしをとても悲しい目に遭わせないでおくれ」
159  とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
 
 とおっしゃるが、冷たくなっていたので、感じも気味が悪くなって行く。
 
160  右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさま、いといみじ。
 
 右近は、ただ「ああ、気味が悪い」と思っていた気持ちもすっかり冷めて、泣いて取り乱す様子はまことに大変である。
 
161  南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひ(奥入04・自筆奥入09)を思し出でて、心強く、  南殿の鬼が、某大臣を脅かした例をお思い出しになって、気強く、
162  〔源氏〕「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。
 夜の声はおどろおどろし。
 あなかま」
 〔源氏〕「いくら何でも、死にはなさるまい。
 夜の声は大げさだ。
 静かに」
163  と諌めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
 
 とお諌めになって、まったく突然の事なので、茫然とした気持ちでいらっしゃる。
 
164  この男を召して、  先ほどの男を呼び寄せて、
165  〔源氏〕「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言へ、と仰せよ。
 なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。
 かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。
 かかる歩き許さぬ人なり」
 〔源氏〕「ここに、まことに不思議に、魔性のものに魅入られた人が苦しそうなので、今すぐに、惟光朝臣の泊まっている家に行って、急いで参上するように言え、と命じなさい。
 某阿闍梨が、そこに居合わせていたら、ここに来るよう、こっそりと言いなさい。
 あの尼君などが聞こうから、大げさに言うな。
 このような忍び歩きは許さない人だ」
166  など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、この人を空しくしなしてむことの、いみじく思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。
 
 などと、用件をおっしゃるようだが、胸が一杯で、この人を死なせてしまったらどうなることかとたまらなくお思いになるのに加えて、辺りの不気味さは、譬えようもない。
 
167  夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。
 まして、松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、「梟」はこれにやとおぼゆ。
 うち思ひめぐらすに、こなたかなた、けどほく疎ましきに、人声はせず、「などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。
 
 夜中も過ぎたのだろうか、風がやや荒々しく吹いているのは。
 その上に、松風の響きが、木深く聞こえて、異様な鳥がしわがれ声で鳴いているのも、「梟」と言う鳥はこのことかと思われる。
 あれこれと考え廻らすと、あちらこちらと、何となく遠く気味が悪いうえに、人声はせず、「どうして、このような心細い外泊をしてしまったのだろう」と、後悔してもしようがない。
 
168  右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。
 また、これも「いかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。
 我一人さかしき人にて、思しやる方ぞなきや。
 
 右近は、何も考えられず、源氏の君にぴったりと寄り添い申して、震え死にそうである。
 また、この人も「どうなることだろうか」と、気も上の空で掴まえていらっしゃる。
 自分一人がしっかりした人で、途方に暮れていらっしゃるのであったことよ。
 
169  火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。
 「惟光、とく参らなむ」と思す。
 ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、千夜を過ぐさむ心地(奥入03・自筆奥入08)したまふ。
 
 灯火は微かにちらちらとして、母屋との境に立ててある屏風の上が、あちらこちらと陰って見えなさるうえに、魔性の物の足音が、みしみしと踏み鳴らしながら、後方から近寄って来る気がする。
 「惟光よ、早く来て欲しい」とお思いになる。
 居場所が定まらぬ者なので、あちこち探したうちに、夜の明けるまでの待ち遠しさは、千夜を過すような気がなさる。
 
170  からうして(校訂22)、鶏の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、かかる目を見るらむ。
 我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。
 忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。
 ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。
 
 ようやくのことで、鶏の声が遠くで聞こえるにつけ、「危険を冒して、何の因縁で、このような辛い目に遭うのだろう。
 我ながら、このようなことで、大それたあってはならない恋心の報復として、このような、後にも先にも語り草となってしまいそうなことが起こったのだろう。
 隠していても、実際に起こった事は隠しきれず、主上のお耳に入るだろうことを始めとして、世人が推量し噂するだろうことは、良くない京童べの噂になりそうだ。
 あげくのはて、愚か者の評判を立てられるにちがいないなあ」と、ご思案される。
 
 
 

第五段 源氏、二条院に帰る

 
171  からうして、惟光朝臣参れり。
 夜中、暁といはず、御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でむことのあへなきに、ふとも物言はれたまはず。
 右近、大夫のけはひ聞くに、初めよりのこと、うち思ひ出でられて泣くを、君もえ堪へたまはで、我一人さかしがり抱き持たまへりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく、えもとどめず泣きたまふ。
 
 ようやくのことで、惟光朝臣が参上した。
 夜中、早朝の区別なく、御意のままに従う者が、今夜に限って控えていなくて、お呼び出しにまで遅れて参ったのを、憎らしいとお思いになるものの、呼び入れて、おっしゃろうとすることがあまりにもあっけないので、すぐには何もおっしゃれない。
 右近は、大夫の様子を聞くと、初めからのことが、つい思い出されて泣くと、源氏の君も我慢がおできになれず、自分一人気丈夫に抱いていらっしゃったところ、この人を見てほっとなさって、悲しい気持ちにおなりになるのであったが、しばらくは、まことに大変に、とめどもなくお泣きになる。
 
172  ややためらひて、「ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふにもあまりてなむある(校訂23)。
 かかるとみの事には、誦経などをこそはすなれとて、その事どももせさせむ。
 願なども立てさせむとて、阿闍梨(校訂24)ものせよ、と言ひつるは」とのたまふに、
 やっと気持ちを落ち着けて、「ここで、まことに奇妙な事件が起こったのだが、驚くと言っても言いようのないほどだ。
 このような危急のことには、誦経などをすると言うので、その手配をさせよう。
 願文なども立てさせようと思って、阿闍梨に来るようにと、言ってやったのは、どうなったか」とおっしゃると、
173  〔惟光〕「昨日、山へまかり上りにけり。
 まづ、いとめづらかなることにもはべるかな。
 かねて、例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ」
 〔惟光〕「昨日、山に帰ってしまいました。
 それにしても、まことに奇妙なことでございますね。
 以前から、常とは違ってご気分のすぐれないことでもございましたのでしょうか」
174  〔源氏〕「さることもなかりつ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たてまつる人もいと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。
 
 〔源氏〕「そのようなこともなかった」と言って、お泣きになる様子、とても優美でいたわしく、拝見する人もほんとうに悲しくて、自分もおいおいと泣いた。
 
175  さいへど、年うちねび、世の中のとあることと、しほじみぬる人こそ、もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、  そうは言っても、年も相当とり、世の中のあれやこれやと、経験を積んだ人は、非常の時には頼もしいものであるが、どちらもどちらも若い者同士で、どうしようもないが、
176  〔惟光〕「この院守などに聞かせむことは、いと便なかるべし。
 この人一人こそ睦しくもあらめ、おのづから物言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ。
 まづ、この院を出でおはしましね」と言ふ。
 
 〔惟光〕「この院の管理人などに聞かせるようなことは、まことに不都合なことでしょう。
 この管理人一人は親密であっても、自然と口をすべらしてしまう身内も中にはいることでしょう。
 まずは、この院をお出なさいましね」と言う。
 
177  〔源氏〕「さて、これより人少ななる所はいかでかあらむ」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「ところで、ここより人少なな所がどうしてあろうか」とおっしゃる。
 
178  〔惟光〕「げに、さぞはべらむ。
 かの故里は、女房などの、悲しびに堪へず、泣き惑ひはべらむに、隣しげく、とがむる里人多くはべらむに、おのづから聞こえはべらむを、山寺こそ、なほかやうのこと、おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」と、思ひまはして、〔惟光〕「昔、見たまへし女房の、尼にてはべる東山の辺に、移したてまつらむ。
 惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の、みづはぐみて住みはべるなり。
 辺りは、人しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり」
 〔惟光〕「なるほど、そうでございましょう。
 あの元の家は、女房などが、悲しみに耐えられず、泣き取り乱すでしょうし、隣家が多く、見咎める住人も多くございましょうから、自然と噂が立ちましょうが、山寺は、何と言ってもこのようなことも、自然ありがちで、目立たないことでございましょう」と言って、思案して、〔惟光〕「昔、親しくしておりました女房で、尼になって住んでおります東山の辺に、お移し申し上げましょう。
 惟光めの父朝臣の乳母でございました者が、年老いて住んでいるのです。
 周囲は、人が多いようでございますが、とても閑静でございます」
179  と聞こえて、明けはなるるほどの紛れに、御車寄す。
 
 と申し上げて、夜がすっかり明けるころの騒がしさに紛れて、お車を寄せる。
 
180  この人をえ抱きたまふまじければ、上蓆におしくくみて、惟光乗せたてまつる。
 いとささやかにて、疎ましげもなく、らうたげなり。
 したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲し、と思せば、なり果てむさまを見むと思せど、
 この女をお抱きになれそうもないので、上筵に包んで、惟光がお乗せ申す。
 とても小柄で、気味悪くもなく、かわいらしげである。
 しっかりとしたさまにもくるめないので、髪の毛がこぼれ出ているのを見るにつけ、目の前が真っ暗になって、何とも悲しい、とお思いになると、最後の様子を見届けたい、とお思いになるが、
181  〔惟光〕「はや、御馬にて、二条院へおはしまさむ。
 人騒がしくなりはべらぬほどに」
 〔惟光〕「早く、お馬で、二条院へお帰りあそばすのがよいでしょう。
 人騒がしくなりませぬうちに」
182  とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬はたてまつりて、くくり引き上げなどして、かつは、いとあやしく、おぼえぬ送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨てて行くに、君は物もおぼえたまはず、我かのさまにて、おはし着きたり。
 
 と言って、右近を添えて乗せると、自分は徒歩で、源氏の君に馬はお譲り申して、裾を括り上げなどをして、かつ一方では、とても変で、奇妙な野辺送りだが、君のお悲しみの深いことを拝見すると、自分のことは考えずに行くが、源氏の君は何もお考えになれず、茫然自失の態で、お帰りになった。
 
183  人びと、「いづこより、おはしますにか。
 なやましげに見えさせたまふ」など言へど、御帳の内に入りたまひて、胸をおさへて思ふに、いといみじければ、「などて、乗り添ひて行かざりつらむ。
 生き返りたらむ時、いかなる心地せむ。
 見捨てて行きあかれにけりと、つらくや思はむ」と、心惑ひのなかにも、思ほすに、御胸せきあぐる心地したまふ。
 御頭も痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、惑はれたまへば、「かくはかなくて、我もいたづらになりぬるなめり」と思す。
 
 女房たちは、「どこから、お帰りあそばしましたのか。
 ご気分が悪そうにお見えあそばします」などと言うが、御帳台の内側にお入りになって、胸を押さえて思うと、まことに悲しいので、「どうして、自分も一緒に乗って行かなかったのか。
 もし生き返った場合、どのような気がするだろう。
 見捨てて行ってしまったと、辛く思うであろうか」と、気が動転しているうちにも、お思いやると、お胸のせき上げてくる気がなさる。
 お頭も痛く、身体も熱っぽい感じがして、とても苦しく、どうしてよいやら分からない気がなさるので、「こう元気がなくて、自分も死んでしまうのかも知れない」とお思いになる。
 
184  日高くなれど、起き上がりたまはねば、人びとあやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。
 昨日、え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつかながらせたまふ。
 大殿の君達参りたまへど、頭中将ばかりを、「立ちながら、こなたに入りたまへ」とのたまひて、御簾の内ながらのたまふ。
 
 日は高くなったが、起き上がりなさらないので、女房たちは不思議に思って、お粥などをお勧め申し上げるが、気分が悪くて、とても気弱くお思いになっているところに、内裏からお使者が来て、――昨日、お探し申し上げられなかったことで、主上が御心配あそばしていらっしゃる、ということで――、大殿の公達が参上なさったが、頭中将だけを、「立ったままで、ここにお入り下さい」とおっしゃって、御簾の内側のままでお話しなさる。
 
185  〔源氏〕「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重くわづらひはべりしが、頭剃り忌むこと受けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このごろ、またおこりて、弱くなむなりにたる、『今一度、とぶらひ見よ』と申したりしかば、いときなきよりなづさひし者の、今はのきざみに、つらしとや思はむ、と思うたまへてまかれりしに、その家なりける下人の、病しけるが、にはかに出であへで亡くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ、取り出ではべりけるを、聞きつけはべりしかば、神事なるころ、いと不便なること、と思うたまへかしこまりて、え参らぬなり。
 この暁より、しはぶき病みにやはべらむ、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆること」
 〔源氏〕「乳母でございます者で、この五月のころから、重く患っておりました者が、髪を切り受戒などをして、その甲斐があってか、生き返っていましたが、最近、再発して、弱くなっていますのが、『今一度、見舞ってくれ』と申していたので、幼いころから馴染んだ人が、今はの際に、薄情なと思うだろうと、存じて参っていたところ、その家にいた下人で、病気していた者が、急に暇をとる間もなく亡くなってしまったのを、恐れ遠慮して、日が暮れてから運び出したのを、聞きつけましたので、神事のあるころで、まことに不都合なこと、と存じまして謹慎し、参内できないのです。
 この早朝から、風邪でしょうか、頭がとても痛くて苦しうございますので、大変失礼したまま申し上げます次第で」
186  などのたまふ。
 中将、
 などとおっしゃる。
 頭中将は、
187  〔頭中将〕「さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。
 昨夜も、御遊びに、かしこく求めたてまつらせたまひて、御気色悪しくはべりき」と聞こえたまひて、立ち返り、「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。
 述べやらせたまふことこそ、まことと思うたまへられね」
 〔頭中将〕「それでは、そのような旨を奏上しましょう。
 昨夜も、管弦の御遊の折に、畏れ多くもお探し申しあそばされて、御機嫌お悪うございました」と申し上げなさって、また引き返して、「どのような穢れにご遭遇あそばしたのですか。
 ご説明なされたことは、本当とは存じられません」
188  と言ふに、胸つぶれたまひて、  と言うので、胸がどきりとなさって、
189  〔源氏〕「かく、こまかにはあらで、ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、奏したまへ。
 いとこそ、たいだいしくはべれ」
 〔源氏〕「このように、詳しくではなく、ただ、思いがけない穢れに触れた由を、奏上なさって下さい。
 まったく不都合なことでございます」
190  と、つれなくのたまへど、心のうちには、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地も悩ましければ、人に目も見合せたまはず。
 蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ。
 大殿などにも、かかることありて、え参らぬ御消息など聞こえたまふ。
 
 と、さりげなくおっしゃるが、心中は、どうしようもなく悲しい事とお思いになるにつけ、ご気分もすぐれないので、誰ともお顔を合わせなさらない。
 蔵人の弁を呼び寄せて、きまじめにその旨を奏上させなさる。
 大殿などにも、これこれの事情があって、参上できないお手紙などを差し上げなさる。
 
 
 

第六段 十七日夜、夕顔の葬送

 
191  日暮れて、惟光参れり。
 かかる穢らひありとのたまひて、参る人びとも、皆立ちながらまかづれば、人しげからず。
 召し寄せて、
 日が暮れて、惟光が参上した。
 これこれの穢れがあるとおっしゃったので、お見舞いの人々も、皆立ったままで退出するので、人目は多くない。
 呼び寄せて、
192  〔源氏〕「いかにぞ。
 今はと見果てつや」
 〔源氏〕「どうであったか。
 もう最期と見えたか」
193  とのたまふままに、袖を御顔に押しあてて泣きたまふ。
 惟光も泣く泣く、
 とおっしゃると同時に、袖をお顔に押し当ててお泣きになる。
 惟光も泣きながら、
194  〔惟光〕「今は限りにこそはものしたまふめれ。
 長々と籠もりはべらむも便なきを、明日なむ、日よろしくはべれば(校訂25)、とかくの事、いと尊き老僧の、あひ知りてはべるに、言ひ語らひつけはべりぬる」と聞こゆ。
 
 〔惟光〕「もはやご最期のようでいらっしゃいます。
 いつまでも一緒に籠っておりますのも不都合なので、明日は、日柄がよろしゅうございますので、あれこれ葬儀のことを、大変に尊い老僧で、知っております者に、連絡をつけました」と申し上げる。
 
195  〔源氏〕「添ひたりつる女は、いかに」とのたまへば、  〔源氏〕「付き添っていた女は、どうしたか」とおっしゃると、
196  〔惟光〕「それなむ、また、え生くまじくはべるめる。
 我も後れじと惑ひはべりて、今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる。
 〔右近〕『かの故里人に告げやらむ』と申せど、〔惟光〕『しばし、思ひしづめよ、と。
 ことのさま思ひめぐらして』となむ、こしらへおきはべりつる」
 〔惟光〕「その者も、同様に、生きてはいられそうにないようでございます。
 自分も死にたいと取り乱しまして、今朝は谷に飛び込みそうになったのを拝見しました。
 〔右近〕『あの元住んでいた家の人に知らせよう』と申しますが、『今しばらく、落ち着きなさい、と。
 事情をよく考えてからに』と、宥めておきました」
197  と、語りきこゆるままに、いといみじと思して、  と、ご報告申すにつれて、とても悲しくお思いになって、
198  〔源氏〕「我も、いと心地悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「わたしも、とても気分が悪くて、どうなってしまうのであろうかと思われる」とおっしゃる。
 
199  〔惟光〕「何か、さらに思ほしものせさせたまふ。
 さるべきにこそ、よろづのことはべらめ。
 人にも漏らさじと思うたまふれば、惟光おり立ちて、よろづはものしはべる」など申す。
 
 〔惟光〕「何を、この上くよくよお考えあそばしますか。
 そうなる運命に、万事決まっていたのでございましょう。
 誰にも聞かせまいと存じますので、惟光めが身を入れて、万事始末いたします」などと申す。
 
200  〔源氏〕「さかし。
 さ、皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。
 少将の命婦などにも聞かすな。
 尼君ましてかやうのことなど、諌めらるるを、心恥づかしくなむおぼゆべき」と、口かためたまふ。
 
 〔源氏〕「そうだ。
 そのように何事も思ってはみるが、いい加減な遊び心から、人を死なせてしまった非難を受けねばならないのが、まことに辛いのだ。
 少将命婦などにも聞かせるな。
 尼君にましてこのようなことなど、お叱りになるから、恥ずかしい気がしよう」と、口封じなさる。
 
201  〔惟光〕「さらぬ法師ばらなどにも、皆、言ひなすさま異にはべる」  〔惟光〕「その他の法師たちなどにも、すべて、説明は別々にしてございます」
202  と聞こゆるにぞ、かかりたまへる。
 
 と申し上げるので、頼りになさっている。
 
203  ほの聞く女房など、「あやしく、何ごとならむ、穢らひのよしのたまひて、内裏にも参りたまはず、また、かくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。
 
  わずかに会話を聞く女房などは、「変だわ、何事だろうか、穢れに触れた旨をおっしゃって、宮中へも参内なさらず、また、このようにひそひそと話して嘆いていらっしゃる」と、ぼんやり不思議がる。
 
204  〔源氏〕「さらに事なくしなせ」と、そのほどの作法のたまへど、  〔源氏〕「重ねて無難に取り計らえ」と、葬式の作法をおっしゃるが、
205  〔惟光〕「何か、ことことしくすべきにもはべらず」  〔惟光〕「いやいや、大げさにする必要もございません」
206  とて立つが、いと悲しく思さるれば、  と言って立つのが、とても悲しく思わずにはいらっしゃれないので、
207  〔源氏〕「便なしと思ふべけれど、今一度、かの亡骸を見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にて(校訂26)ものせむ」  〔源氏〕「きっと不都合なことと思うだろうが、今一度、あの亡骸を見ないのが、とても心残りだから、馬で行ってみたい」
208  とのたまふを、いとたいだいしきこととは思へど、  とおっしゃるので、厄介な事だとは思うが、
209  〔惟光〕「さ思されむは、いかがせむ。
 はや、おはしまして、夜更けぬ先に帰らせおはしませ」
 〔惟光〕「そのようにお思いになるならば、仕方ございません。
 早く、お出かけあそばして、夜が更けない前にお帰りあそばしませ」
210  と申せば、このごろの御やつれにまうけたまへる、狩の御装束着、替へなどして出でたまふ。
 
 と申し上げるので、最近のお忍び用にお作りになった、狩衣のご衣装に着替えなどしてお出かけになる。
 
211  御心地かきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、いかにせむと思しわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今の骸を見では、またいつの世にかありし容貌をも見む」と、思し念じて、例の大夫、随身を具して出でたまふ。
 
 お心はまっ暗闇で、大変に堪らないので、このような変な道に出かけようとするにつけても、危なかった懲り事のために、どうしようかとお悩みになるが、やはり悲しみの晴らしようがなく、「現在の亡骸を見ないでは、再び来世で生前の姿を見られようか」と、悲しみを堪えなさって、いつものように惟光大夫と、随身を連れてお出掛けになる。
 
212  道遠くおぼゆ。
 十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。
 
 道中が遠く感じられる。
 十七日の月がさし昇って、河原の辺りでは、御前駆の松明も仄かであるし、鳥辺野の方角などを見やった時など、何となく気味悪いのも、何ともお感じにならず、心乱れなさって、お着きになった。
 
213  辺りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。
 御燈明の影、ほのかに透きて見ゆ。
 その屋には、女一人泣く声のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。
 寺々の初夜も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。
 清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。
 この尼君の子なる大徳の声尊くて、経うち読みたるに、涙の残りなく思さる。
 
 周囲一帯までがぞっとする所だが、板屋の隣にお堂を建ててお勤めしている尼の家は、まことにもの寂しい感じである。
 御灯明の光が、微かに隙間から見える。
 その家には、女の一人泣く声ばかりして、外の方に、法師たち二、三人が話をしいしい、特に声を立てない念仏を唱えている。
 寺々の初夜も、皆、お勤めが終わって、とても静かである。
 清水寺の方角は、光が多く見え、人の気配がたくさんあるのであった。
 この尼君の子である大徳が尊い声で、経を読んでいるので、涙も涸れんばかりに思わずにはいらっしゃれない。
 
214  入りたまへれば、灯取り背けて、右近は屏風隔てて臥したり。
 いかにわびしからむと、見たまふ。
 恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。
 手をとらへて、
 お入りになると、灯火を遺骸から背けて、右近は屏風を隔てて臥していた。
 どんなに侘しく思っているだろう、と御覧になる。
 気味悪さも感じられず、とてもかわいらしい様子をして、まだ少しも変わった所がない。
 手を握って、
215  〔源氏〕「我に、今一度、声をだに聞かせたまへ。
 いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと」
 〔源氏〕「わたしに、もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。
 どのような前世からの因縁があったのだろうか、少しの間に、心の限りを尽くして愛しいと思ったのに、残して逝って、途方に暮れさせなさるのが、あまりのこと」
216  と、声も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。
 
 と、声も惜しまず、お泣きになること、際限がない。
 
217  大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、涙落としけり。
 
 大徳たちも、この方たちを誰とは知らないが、子細があると思って、皆、涙を落としたのだった。
 
218  右近を、〔源氏〕「いざ、二条へ」とのたまへど、  右近に、〔源氏〕「さあ、二条へ」とおっしゃるが、
219  〔右近〕「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れたてまつらず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか帰りはべらむ。
 いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。
 悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騒がれはべらむが、いみじきこと」と言ひて、泣き惑ひて、「煙にたぐひて、慕ひ参りなむ」と言ふ。
 
 〔右近〕「長年、幼うございました時から、片時もお離れ申さず、馴れ親しみ申し上げてきたお方に、急にお別れ申して、どこに帰ったらよいのでございましょう。
 どのようにおなりになったと、皆に申せましょう。
 悲しいことはさておいて、皆にとやかく言われましょうことが、辛いことで」と言って、泣き崩れて、「煙と一緒になって、後をお慕い申し上げたい」と言う。
 
220  〔源氏〕「道理なれど、さなむ世の中はある。
 別れと言ふもの、悲しからぬはなし。
 とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。
 思ひ慰めて、我を頼め」と、のたまひこしらへて、「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ」
 〔源氏〕「ごもっともだが、世の中はそのようなものである。
 別れというもので、悲しくないものはない。
 先立つのも残されるのも、同じく寿命で定まったものである。
 気を取り直して、わたしを頼れ」と、お慰めになりながらも、「このように言う我が身こそが、生きながらえられそうにない気がする」
221  とのたまふも、頼もしげなしや。
 
 とおっしゃるのも、頼りない話である。
 
222  惟光、「夜は、明け方になりはべりぬらむ。
 はや帰らせたまひなむ」
 惟光が、「夜は、明け方になってしまいましょう。
 早くお帰りあそばしますように」
223  と聞こゆれば、返りみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。
 
 と申し上げるので、振り返り振り返りばかりされて、胸をひしと締め付けられた思いでお出になる。
 
224  道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなく惑ふ心地したまふ。
 ありしながらうち臥したりつるさま、うち交はしたまへりしが、我が御紅の御衣の着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと、道すがら思さる。
 御馬にも、はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また、惟光添ひ助けておはしまさするに、堤のほどにて、御馬よりすべり下りて、いみじく御心地惑ひければ、
 道中とても露っぽいところに、更に大変な朝霧で、どこだか分からないような気がなさる。
 生前の姿のままで横たわっていた様子、互いにお掛け合いになって寝たのや、その自分の紅のご衣装がそのまま着せ掛けてあったことなどが、どのような前世の因縁であったのかと、道すがらお思いにならずにはいらっしゃれない。
 お馬にも、しっかりとお乗りになることができそうにないご様子なので、再び、惟光が介添えしてお連れしていくと、堤の辺りで、馬からすべり下りて、ひどくご惑乱なさったので、
225  〔源氏〕「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。
 さらに、え行き着くまじき心地なむする」
 〔源氏〕「こんな道端で、野垂れ死んでしまうのだろうか。
 まったく、帰り着けそうにない気がする」
226  とのたまふに、惟光、心地惑ひて、「我がはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でたてまつるべきかは」と思ふに、いと心あわたたしければ、川の水(校訂27)に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく思ひ惑ふ。
 
 とおっしゃるので、惟光も困惑して、「自分がしっかりしていたら、あのようにおっしゃっても、このような所にお連れ出し申し上げるべきではなかった」と反省すると、とても気ぜわしく落ち着いていられないので、鴨川の水で手を洗い清めて、清水の観音をお拝み申しても、どうしようもなく途方に暮れる。
 
227  君も、しひて御心を起こして、心のうちに仏を念じたまひて、また、とかく助けられたまひてなむ、二条院へ帰りたまひける。
 
 源氏の君も、無理に気を取り直して、心中に仏を拝みなさって、再び、あれこれ助けられなさって、二条院へお帰りになったのであった。
 
228  あやしう夜深き御歩きを、人びと、「見苦しきわざかな。
 このごろ、例よりも静心なき御忍び歩きのしきるなかにも、昨日の御気色の、いと悩ましう思したりしに。
 いかでかく、たどり歩きたまふらむ」と、嘆きあへり。
 
 奇妙な深夜のお忍び歩きを、女房たちは、「みっともないこと。
 近ごろ、いつもより落ち着きのないお忍び歩きが、うち続く中でも、昨日のご様子が、とても苦しそうでいらっしゃいましたが。
 どうしてこのように、ふらふらお出歩きなさるのでしょう」と、嘆き合っていた。
 
229  まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。
 内裏にも、聞こしめし、嘆くこと限りなし。
 御祈り、方々に隙なくののしる。
 祭、祓、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。
 世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
 
 ほんとうに、お臥せりになったままで、とてもひどくお苦しみになって、二、三日にもなったので、すっかり衰弱のようでいらっしゃる。
 帝におかせられても、お耳にあそばされ、嘆かれることはこの上ない。
 御祈祷を、方々の社寺にひっきりなしに大騒ぎにする。
 祭り、祓い、修法など、数え上げたらきりがない。
 この世にまたとなく美しいご様子なので、長生きあそばされないのではないかと、国中の人々の騷ぎである。
 
230  苦しき御心地にも、かの右近を召し寄せて、局など近くたまひて、さぶらはせたまふ。
 惟光、心地も騒ぎ惑へど、思ひのどめて、この人のたづきなしと思ひたるを、もてなし助けつつさぶらはす。
 
 苦しいご気分ながらも、あの右近を呼び寄せて、部屋などを近くにお与えになって、お仕えさせなさる。
 惟光は、気が気でなくどうしてよいかわからないでいるが、気を落ち着けて、この右近が主人を亡くして悲しんでいるのを、支え助けてやりながら仕えさせる。
 
231  君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。
 服、いと黒くして、容貌などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。
 
 源氏の君は、少し気分のよろしく思われる時は、右近を呼び寄せてご用を言いつけたりなどなさるので、まもなく馴染んだ。
 喪服は、とても黒いのを着て、器量など良くはないが、不器量で見苦しいというほどでもない若い女性である。
 
232  〔源氏〕「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり(校訂28)。
 年ごろの頼み失ひて、心細く思ふらむ慰めにも、もしながらへば、よろづに育まむとこそ思ひしか、ほどなく、またたち添ひぬべきが、口惜しくもあるべきかな」
 〔源氏〕「不思議に短かったご宿縁に引かれて、わたしもこの世に生きていられないような気がする。
 長年の主人を亡くして、心細く思っているだろうな、その慰めにも、もし生きながらえたら、いろいろと面倒を見たいと思ったが、まもなく自分も後を追ってしまいそうなのが、残念なことだなあ」
233  と、忍びやかにのたまひて、弱げに泣きたまへば、言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と思ひきこゆ。
 
 と、ひっそりとおっしゃって、弱々しくお泣きになるので、右近は今さら言ってもしかたないことはさて措いても、「はなはだもったいないことだ」とお思い申し上げる。
 
234  殿のうちの人、足を空にて思ひ惑ふ。
 内裏より、御使、雨の脚よりもけにしげし。
 思し嘆きおはしますを聞きたまふに、いとかたじけなくて、せめて強く思しなる。
 大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづらひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
 
 お邸の人々は、足も地に着かないほどどうしてよいか分からないでいる。
 内裏から、御勅使が、雨脚よりも格段に頻繁にある。
 帝が御心配あそばされていらっしゃるのをお聞きになると、まことに恐れ多くて、無理に気を強くお持ちになる。
 大殿邸でも懸命にお世話なさって、左大臣が、毎日お越しになっては、さまざまな加持祈祷をおさせなさる、その効果があってか、二十余日間、ひどく重く患っていらっしゃったが、格別の余病もなく、回復された様子にお見えになる。
 
235  穢らひ忌みたまひしも、一つに(校訂29)満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせたまふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。
 大殿、我が御車にて迎へたてまつりたまひて、御物忌なにやと、むつかしう慎ませたてまつりたまふ。
 我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。
 
 死穢によって籠っていらっしゃった忌中明けの日と、病気回復の床上げの日とが、同日の夜になったので、御心配あそばされていらっしゃるお気持ちが、どうにも恐れ多いので、宮中のご宿直所に参内などなさる。
 大殿は、ご自分のお車でお迎え申し上げなさって、御物忌みや何やかやと、うるさくお慎みさせ申し上げなさる。
 ぼんやりとして、別世界にでも生き返ったように、暫くの間はお感じになっていた。
 
 
 

第七段 忌み明ける

 
236  九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじく(校訂30)なまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。
 見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。
 
 九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって、とてもひどく面やつれしていらっしゃるが、かえって、たいそう優美で、物思いに沈みがちに、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。
 拝見して怪しむ女房もいて、「物の怪がお憑きのようだわ」などと言う者もいる。
 
237  右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、  右近を召して、気分もゆったりとした夕暮に、お話などなさって、
238  〔源氏〕「なほ、いとなむあやしき。
 などてその人と知られじとは、隠いたまへりしぞ。
 まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、
 〔源氏〕「やはり、とても不思議だ。
 どうして誰とも知られまいと、お隠しになっていたのか。
 本当に賤しい身分であったとしても、あれほど愛しているのを知らず、隠していらっしゃったので、辛かった」とおっしゃると、
239  〔右近〕「などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。
 いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。
 初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞こえたまひながら、『なほざりにこそ、紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに思したりし」と聞こゆれば、
 〔右近〕「どうして、深くお隠し申し上げなさる必要がございましょう。
 いつの折にか、たいした名でもないお名前を申し上げなさることができましょう。
 初めから、不思議な思いもかけなかったご関係なので、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『お名前を隠していらしたのも、きっとあなた様でいらっしゃるからでしょう』と存じ上げてはいらっしゃりながら、『いい加減な遊び事として、お名前を隠していらっしゃるのだろう』と、辛いことにお思いになっていました」と申し上げるので、
240  〔源氏〕「あいなかりける心比べどもかな。
 我は、しか隔つる心もなかりき。
 ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。
 内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる身(校訂正31)にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。
 またうち返し、つらうおぼゆる。
 かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。
 なほ詳しく語れ。
 今は、何ごとを隠すべきぞ。
 七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、
 〔源氏〕「つまらない意地の張り合いであったな。
 自分は、そのように隠しておく気はなかった。
 ただ、このように人から許されない忍び歩きは、まだ経験ないことなのだ。
 主上が御注意あそばすことを始め、憚ることの多い身なので、ちょっと人に冗談を言うにつけても、窮屈で、取り沙汰が大げさな身の上の有様なので、ふとした夕方の出来事から、妙に心に掛かって、無理算段してお通い申したのも、このような運命がおありだったのだろうと思うにつけても、お気の毒で。
 また反対に、恨めしく思われてならない。
 こう長くはない宿縁であったれば、どうして、あれほど心底から愛しく思われなさったのだろう。
 もう少し詳しく話せ。
 今はもう、何を隠す必要があろう。
 七日毎に仏画を描かせても、誰のためにと、心の中に祈ろうか」とおっしゃると、
241  〔右近〕「何か、隔てきこえさせはべらむ。
 自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。
 
 〔右近〕「どうして、お隠し申し上げましょう。
 しかしご自身が、お隠し続けていらしたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言い洩らしてはいかがなものか、と存じおりますばかりです。
 
242  親たちは、はや亡せたまひにき。
 三位中将となむ聞こえし。
 いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし。
 それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、山里に移ろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、思し嘆くめりし。
 世の人に似ず、ものづつみをしたまひて、人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりしか」
 ご両親は、早くお亡くなりになりました。
 三位中将と申しました。
 とてもかわいい姫とお思い申し上げられていましたが、ご自分の出世が思うにまかせぬのをお嘆きのようでしたが、お命までままならず亡くなってしまわれた後、ふとした縁で、頭中将殿が、まだ少将でいらした時に、お通い申し上げあそばすようになって、三年ほどの間は、ご誠意をもってお通いになりましたが、去年の秋ごろ、あの右大臣殿家から、とても恐ろしい事を言って寄こしたので、ものをむやみに怖がるご性質ゆえに、どうしてよいか分からなくお怖がりになって、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れなさいました。
 そこもとてもむさ苦しい所ゆえ、お住まいになりにくくて、山里に移ってしまおうと、お思いになっていたところ、今年からは方塞がりの方角でございましたので、方違えしようと思って、賤しい家においでになっていたところを、お見つけられ申されてしまった事と、お嘆きのようでした。
 世間の人と違って、引っ込み思案をなさって、他人から物思いしている様子を見られるのを、恥ずかしいこととお思いなさって、さりげないふうを装って、お目にかかっていらっしゃるようでございました」
243  と、語り出づるに、「さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
 
 と、話し出すと、「そうであったのか」と、お思い合わせになって、ますます不憫さが増した。
 
244  〔源氏〕「幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。
 
 〔源氏〕「幼い子を行く方知れずにしたと、頭中将が残念がっていたのは、そのような子でもいたのか」とお尋ねになる。
 
245  〔右近〕「しか。
 一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。
 女にて、いとらうたげになむ」と語る。
 
 〔右近〕「はい、さようでございます。
 一昨年の春に、お生まれになりました。
 女の子で、とてもかわいらしくて」と話す。
 
246  〔源氏〕「さて、いづこにぞ。
 人にさとは知らせで、我に得させよ。
 あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。
 「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかこと負ひなむ。
 とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじきを。
 そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。
 
 〔源氏〕「それで、どこに。
 誰にもそうとは知らせないで、わたしに下さい。
 あっけなく亡くなって、悲しいと思っている人のお形見として、どんなにか嬉しいことだろう」とおっしゃる。
 「あの中将にも伝えるべきだが、言っても始まらない恨み言を言われるだろう。
 あれこれにつけて、お育てするに不都合はあるまいからね。
 その一緒にいる乳母などにも、違ったふうに言い繕って、連れて来てくれ」などと相談をもちかけなさる。
 
247  〔右近〕「さらば、いとうれしくなむはべるべき。
 かの西の京にて生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。
 はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこに」など聞こゆ。
 
 〔右近〕「それならば、とても嬉しいことでございましょう。
 あの西の京でご成育なさるのは、不憫でございまして。
 これといった後見人もいないというので、あちらにいらっしゃいますが」などと申し上げる。
 
248  夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしき交じらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。
 竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、面影にらうたく思し出でらるれば、
 夕暮の静かなころに、空の様子はとてもしみじみと感じられ、お庭先の前栽は枯れ枯れになり、虫の音も鳴き弱りはてて、紅葉がだんだん色づいて行くところが、絵に描いたように美しいのを見渡して、思いがけず結構な宮仕えをすることになったと、あの夕顔の宿を思い出すのも恥ずかしい。
 竹薮の中に家鳩という鳥が、太い声で鳴くのをお聞きになって、あの先日の院でこの鳥が鳴いたのを、とても怖いと思っていた様子が、まぶたにかわいらしくお思い出されるので、
249  〔源氏〕「年はいくつにかものしたまひし。
 あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「年はいくつにおなりだったか。
 不思議に普通の人と違って、か弱くお見えであったのも、このように長生きできなかったからなのだね」とおっしゃる。
 
250  〔右近〕「十九にやなりたまひけむ。
 右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば、いかでか世にはべらむずらむ。
 いとしも人に(自筆奥入07)と、悔しくなむ。
 ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。
 
 〔右近〕「十九歳におなりだったでしょうか。
 右近めは、亡くなった乳母があとに残して逝きましたので、父君の三位の君様がわたしをかわいがって下さって、姫のお側離れず一緒に、お育て下さいましたのを思い出しますと、どうして生きておられましょう。
 『どうしてこう深く親しんだのだろう』と、悔やまれまして。
 気弱そうでいらっしゃいました女君のお気持ちを、頼むお方として、長年仕えてまいりましたことでございます」と申し上げる。
 
251  〔源氏〕「はかなびたるこそは、らうたけれ。
 かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。
 自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女は、ただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、
 〔源氏〕「頼りなげな人こそ、女はかわいらしいのだ。
 利口で我の強い人は、とても好きになれないものだ。
 自分自身がてきぱきとしっかりしていない性情だから、女は、ただ素直で、うっかりすると男に欺かれてしまいそうなのが、そのくせ引っ込み思案で、男の心にはついていくのが、愛しくて、自分の思いのままに育てて一緒に暮らしたら、慕わしく思われることだろう」などと、おっしゃると、
252  〔右近〕「この方の御好みには、もて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。
 
 〔右近〕「こちらのお好みには、きっとお似合いだったでしょうと、存じられますにつけても、残念なことでございましたわ」と言って泣く。
 
253  空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、  空が少し曇って、風も冷たく感じられる折柄、とても感慨深く物思いに沈んで、
 

36
 〔源氏〕
「見し人の 煙を雲と 眺むれば
 夕べの空も むつましきかな」
 〔源氏〕
「契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると
  この夕方の空も親しく思われるよ」
 
254  独りごちたまへど、えさし答へも聞こえず。
 かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。
 耳かしかましかりし砧の音を、思し出づるさへ恋しくて、「正に長き夜(自筆奥入10)」とうち誦じて、臥したまへり。
 
 と独り詠じられたが、ご返歌も申し上げられない。
 このように、生きていらしたならば、と思うにつけても、胸が一杯になる。
 耳障りであった砧の音を、お思い出しになるのまでが、恋しくて、「八月九月正に長き夜……」と口ずさんで、お臥せりになった。
 
 
 

第五章 空蝉の物語(2)

 
 

第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答

 
255  かの、伊予の家の小君、参る折あれど、ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば、憂しと思し果てにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。
 遠く下りなどするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかと、試みに、
 あの、伊予介の家の小君は、参上する折はあるが、特別に以前のようなお伝言もなさらないので、自分を嫌な女だとお見限りになられたのを、つらいと思っていた折柄、このようにご病気でいらっしゃるのを聞いて、やはり悲しい気がするのであった。
 遠くへ下るのなどが、何といっても心細い気がするので、お忘れになってしまったかと、試しに、
256  〔空蝉〕「承り(校訂32)、悩むを、言に出でては、えこそ、  〔空蝉〕「承りまして、案じておりますが、口に出しては、とても、
 

37
 問はぬをも などかと問はで ほどふるに
 いかばかりかは 思ひ乱るる
 お見舞いできませんことをなぜかとお尋ね下さらずに月日が経ましたが
 わたしもどんなにか思い悩んでいます
 
257  『益田(自筆奥入11)』はまことになむ」  『益田の池の生きている甲斐ない』とは本当のことで」
258  と聞こえたり。
 めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず。
 
 と申し上げた。
 久しぶりにうれしいので、この女へも愛情はお忘れにならない。
 
259  〔源氏〕「『生けるかひなき(自筆奥入11)』や、誰が言はましことにか。
 
 〔源氏〕「『生きている甲斐がない』とは、誰が言ったらよい言葉でしょうか。
 
 

38
 空蝉の 世は憂きものと 知りにしを
 また(校訂33)言の葉に かかる命よ
 あなたとのはかない仲は嫌なものと知ってしまいましたが
 またもあなたの言の葉に期待を掛けて生きていこうと思います
 
260  はかなしや」  何とも頼りないことよ」
261  と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。
 なほ、かのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。
 
 と、お手も震えなさるので、乱れ書きなさっているのが、ますます美しそうである。
 今だに、あの脱ぎ捨てた衣をお忘れにならないのを、気の毒にもおもしろくも思うのであった。
 
262  かやうに憎からずは、聞こえ交はせど、け近くとは思ひよらず、さすがに、言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなむ、と思ふなりけり。
 
 このように愛情がなくはなく、文のやりとりをなさるが、身近にお逢いしようとは思ってもいないが、とはいえ、情趣を解さない女だと思われない格好で終わりにしたい、と思うのであった。
 
263  かの片つ方は、蔵人少将をなむ通はす、と聞きたまふ。
 「あやしや。
 いかに思ふらむ」と、少将の心のうちもいとほしく、また、かの人の気色もゆかしければ、小君して、「死に返り思ふ心は、知りたまへりや」と言ひ遣はす。
 
 あのもう一方の女は、蔵人少将を通わせていると、お聞きになる。
 「おかしなことだ。
 どう思っているだろう」と、少将の気持ちにも同情し、また、あの女の様子も興味があるので、小君を使いにして、「死ぬほどに思っている気持ちは、お分かりでしょうか」と言っておやりになる。
 
 

39
 〔源氏〕
「ほのかにも 軒端の荻を 結ばずは
 露のかことを 何にかけまし」
 〔源氏〕
「一夜の逢瀬なりとも軒端の荻を結ぶ契りをしなかったら
  わずかばかりの恨み言も何を理由に言えましょうか」
 
264  高やかなる荻に付けて、「忍びて」とのたまにつれど、「取り過ちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば、さりとも、罪ゆるしてむ」と思ふ、御心おごりぞ、あいなかりける。
 
 丈高い荻に結び付けて、「こっそりと」と小君におっしゃっていたが、「間違って、少将が見つけて、わたしだったのだと分かってしまったら、それでも、まあ許してくれよう」と思う、高慢なお気持ちは、困ったものです。
 
265  少将のなき折に(校訂34)見すれば、心憂しと思へど、かく思し出でたるも、さすがにて、御返り、口ときばかりをかことにて取らす。
 
 少将のいない時に女に見せると、嫌なことと思うが、このように思い出してくださったのも、やはり嬉しくて、お返事を、早いのだけを申し訳にして与える。
 
 

40
 〔軒端荻〕
「ほのめかす 風につけても 下荻の
 半ばは霜に むすぼほれつつ」
 〔軒端荻〕
「ほのめかされるお手紙を見るにつけても霜にあたった下荻のような
  身分の賤しいわたしは、嬉しいながらも半ばは思い萎れています」
 
266  手は悪しげなるを、紛らはし、さればみて書いたるさま、品なし。
 火影に見し顔、思し出でらる。
 「うちとけで向ひゐたる人は、え疎み果つまじきさまもしたりしかな。
 何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」と思し出づるに、憎からず。
 なほ「こりずまに、またもあだ名立ちぬべき(自筆奥入12)」御心のすさびなめり。
 
 筆跡は下手なのを、分からないようにして、しゃれて書いている様子は、品がない。
 灯火で見た顔を、自然と思い出されなさる。
 「気を許さず対座していたあの人は、今でも思い捨てることのできない様子をしていたな。
 この女は何の嗜みもありそうでなく、はしゃいで得意でいたことよ」とお思い出しになると、憎めなくなる。
 相変わらず、「性懲りも無く、また浮き名が立ってしまいそうな」という好色心のようです。
 
 
 

第六章 夕顔の物語(3)

 
 

第一段 四十九日忌の法要

 
267  かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。
 経、仏の飾りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。
 
 あの人の四十九日の法事を、人目を忍んで比叡山の法華堂において、略さずに、装束をはじめとして、お布施に必要な物どもを、心をこめて準備し、読経などをおさせになる。
 経巻や、仏像の装飾まで簡略にせず、惟光の兄の阿闍梨が、大変に高徳の僧なので、見事に催したのであった。
 
268  御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。
 その人となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆるよし、あはれげに書き出でたまへれば、
 学問の師匠で、親しくしておられる文章博士を呼んで、願文を作らせなさる。
 誰それのと言わないで、愛しいと思っていた女性が亡くなってしまったのを、阿弥陀様にお譲り申す旨を、しみじみと下書きなさっていたので、
269  〔文章博士〕「ただかくながら、加ふべきことはべらざめり」と申す。
 
 〔文章博士〕「まったくこのままで、何も書き加えることはございませんようです」と申し上げる。
 
270  忍びたまへど、御涙もこぼれて、いみじく思したれば、〔文章博士〕「何人ならむ。
 その人と聞こえもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」と言ひけり。
 忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴を取り寄せさせたまひて、
 堪えていらっしゃったが、お涙もこぼれて、ひどくお悲しみでいるので、〔文章博士〕「どのような方なのでしょう。
 誰それと噂にも上らないで、これほどにお嘆かせになるほどだったとは、宿運の高いことよ」と言うのであった。
 内々にお作らせになっていた布施の装束の袴をお取り寄させなさって、
 

41
 〔源氏〕
 「泣く泣くも 今日は我が結ふ 下紐を
 いづれの世にか とけて見るべき」
 〔源氏〕「泣きながら今日はわたしが結ぶ袴の下紐を
  いつの世にかまた再会して心打ち解けて下紐を解いて逢うことができようか」
 
271  「このほどまでは漂ふなるを、いづれの道に定まりて赴く(校訂35)らむ」と思ほしやりつつ、念誦をいとあはれにしたまふ。
 頭中将を見たまふにも、あいなく胸騒ぎて、かの撫子の生ひ立つありさま、聞かせまほしけれど、かことに怖ぢて、うち出でたまはず。
 
 「この四十九日までは霊魂が中有に彷徨っているというが、どの道に定まって行くのだろうか」とお思いやりになりながら、念誦をとても心こめてなさる。
 頭中将とお会いになる時にも、むやみに胸がどきどきして、あの撫子が成長している有様を、聞かせてやりたいが、非難されるのを警戒して、お口にはお出しにならない。
 
272  かれ、かの夕顔の宿りには、いづ方にと思ひ惑へど、そのままにえ尋ねきこえず。
 右近だに訪れねば、あやしと思ひ嘆きあへり。
 確かならねど、けはひをさばかりにやと、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと好き歩きければ、いとど夢の心地して、「もし、受領の子どもの好き好きしきが、頭の君に怖ぢきこえて、やがて、率て下りにけるにや」とぞ、思ひ寄りける。
 
 あの、あの夕顔の宿では、どこに行ってしまったのかと心配するが、そのままで尋ね当て申すことができない。
 右近までもが音信ないので、不思議だと思い嘆き合っていた。
 はっきりしないが、様子からそうではあるまいかと、ささめき合っていたので、惟光のせいにしたが、惟光はまるで問題にもせず、関係なく言い張って、相変わらず同じように通って来たので、ますます夢のような気がして、「もしや、受領の子息で好色な者が、頭の君殿に恐れ申して、そのまま、連れて下ってしまったのだろうか」と、想像するのだった。
 
273  この家主人ぞ、西の京の乳母の女なりける。
 三人その子はありて、右近は他人なりければ、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と、泣き恋ひけり。
 右近、はた(校訂36)、かしかましく言ひ騒がむを思ひて、君も今さらに漏らさじと忍びたまへば、若君の上をだにえ聞かず、あさましく行方なくて過ぎゆく(校訂36)。
 
 この夕顔の宿の主人は、西の京の乳母の娘なのであった。
 三人乳母子がいたが、右近は他人だったので、「分け隔てして、ご様子を知らせてくれないのだわ」と、泣き慕うのであった。
 右近は右近で、口やかましく非難されるだろうことを思って、源氏の君も今さら洩らすまいと、お隠しになっているので、若君の噂さえ聞けず、まるきり消息不明のまま過ぎて行く。
 
274  君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、またの夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。
 
 源氏の君は、「せめて夢にでも逢いたい」と、お思い続けていると、この法事をなさった、次の夜に、ぼんやりと、あの某院そのままに、枕上に現れた女の様子も同じようにして見えたので、「荒れ果てた邸に棲んでいた魔物が、わたしに取りついたことで、こんなことになってしまったのだ」と、お思い出しになるにつけても、気味の悪いことである。
 
 
 
 

第七章 空蝉の物語(3)

 
 

第一段 空蝉、伊予国に下る

 
275  伊予介、神無月の朔日ごろに下る。
 女房の下らむにとて、手向け心ことにせさせたまふ。
 また、内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿も遣はす。
 
 伊予介は、神無月の朔日ころに下る。
 女方が下って行くのでということで、源氏の君は餞別を格別に気を配っておさせになる。
 別に、内々にも特別になさって、きめ細かな美しい格好の櫛や、扇をたくさん用意して、幣帛などを特別に大げさにして、あの小袿もお返しになる。
 
 

42
 〔源氏〕
「逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに
 ひたすら袖の 朽ちにけるかな」
 〔源氏〕「再び逢う時までの形見の品ぐらいに思って持っていましたが
  すっかり涙で朽ちるまでになってしまいました」
 
276  こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。
 
 こまごまとした事柄がありましたが、煩雑になるので書きません。
 
277  御使、帰りにけれど、小君して、小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。
 
 お使いの者は、帰ったけれど、小君を使いにして、小袿のお礼だけは申し上げさせた。
 
 

43
 〔空蝉〕
「蝉の羽も たちかへてける 夏衣
 かへすを見てもねは 泣かれけり」
 〔空蝉〕
「蝉の羽の衣替えの終わった後の夏衣は、返してもらっても自然と泣かれるばかりです」
 
278  「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続けたまふ。
 今日ぞ、冬立つ日なりけるも、しるく、うちしぐれて、空の気色いとあはれなり。
 眺め暮らしたまひて、
 「考えても、不思議に人並みはずれた意志の強さで、振られてしまったなあ」と思い続けていらっしゃる。
 今日は、ちょうど立冬の日であったが、いかにもそれと、さっと時雨れて、空の様子もまことに物寂しい。
 一日中物思いに過されて、
 

44
 〔源氏〕「過ぎにしも今日別るるも
二道に行く方知らぬ秋の暮かな」
 〔源氏〕「亡くなった人も今日別れて行く人もそれぞれの道に
  どこへ行くのか知れない秋の暮れだなあ」
 
279  なほ、かく人知れぬことは苦しかりけりと、思し知りぬらむかし。
 かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、みな漏らしとどめたるを、「など、帝の御子ならむからに、見む人さへ、かたほならずものほめがちなる」と、作りごとめきてとりなす人、ものしたまひければなむ。
 あまりもの言ひさがなき罪、さりどころなく。
 
 やはり、このような秘密の恋は辛いものだと、お知りになったことでしょう。
 このような煩わしいことは、努めてお隠しになっていらしたのもお気の毒なので、みなは書かないでおいたのに、「どうして、帝の御子であるからといって、それを知っている人までが、欠点がなく何かと褒めてばかりいる」と言って、作り話のように受け取る方がいらっしゃったので……。
 あまりにも慎みのないおしゃべりの罪は、免れがたいことで……。
 
 
 

【定家注釈】

 
   定家の注釈として、巻末の奥入と本文中の付箋を掲載した。
 しかし、この巻には付箋はない(剥落という場合もあろう)。
 自筆本奥入については本文中に記した。
 ( )の中に、出典名と先行指摘の注釈を記した。
 
 
  奥入01 揚名介
     此事源氏第一之難儀也 非可勘知事
 (語釈、源氏釈・自筆本奥入)
 
  奥入02 長恨哥
   七月七日長生殿 夜半無人私語時
   在天願作比翼鳥 天長地久有時尽
   此恨綿々無絶期(長恨歌、源氏釈・自筆本奥入)
 
  奥入03 いはぬまハちとせをすくす心ちして
   まつハまことに久しかりけり
 (後拾遺667、源氏釈・自筆本奥入)
  此哥近代哥歟 不立此證哥
 
  奥入04 貞信公於南殿御後 被取釼鞘給 抜釼給之由 在大鏡 無他所見歟 人口傳歟(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
 
 

【校訂付記】

 
   他本との校合はせず、本文書写者自身の訂正及び先人によって指摘された誤写箇所のみを本文校訂の対象とした。
 書写者の訂正は、元の文字を擦り消してその上に書き直した訂正と、脱字を細字で補入した訂正跡のみの模様である。
 前者の訂正跡については省略した。
 後人による訂正跡が多数存在するが、明らかな誤写の訂正については諸本を参考にした。
 それ以外は、原文の形を尊重した。
 
 
  校訂01 らうがはしき--羅うるハしき(「可」を「る」と誤写したものであろう、「らうがはしき」と訂正した)  
  校訂02 いと所狭き--い登せ起(「所」を誤脱したものであろう、「所せき」と補訂した)  
  校訂03 まかりて--佐可りて(「万」を「さ」と誤読し「佐」と書いたものであろう、「まかりて」と訂正した)  
  校訂04 見たまへ--見多まひ(謙譲の形であるべきところを尊敬の形に過つ、「見たまへ」と訂正した)  
  校訂05 かこと--かうと(「こ2」を「う」と誤写したものであろう、「かこと」と訂正した)  
  校訂06 なべかり--(/+な1)へ可り(墨筆細字で「な1」を補訂、書写者の訂正であろう)  
  校訂07 えはべらず--ミ侍ら2す(「え2」を「ミ」と誤写したものであろう、「えはべらず」と訂正した)  
  校訂08 まかり--さ可り(「さ」とも「万」とも読める字体、「まかり」と訂正した)  
  校訂09 あるべきかな--あるへ可那(「き」を誤脱、「あるべきかな」と補訂した)  
  校訂10 たてまつり--多てまつ1る(「り」を「る」と誤写、「たてまつり」と訂正した)  
  校訂11 御けはひ--佐け者ひ(「御」を「佐」と誤写、「御けはひ」と訂正した)  
  校訂12 隠る--可へる(「く」を「へ」と誤写、「かくる」と訂正した)  
  校訂13 呉竹--くれ(「竹」を誤脱、「呉竹」と訂正した)  
  校訂14 艶なる心地--ゑんある心ち(「あ」は「る」の誤写であろう、「なる」と訂正した)  
  校訂15 なり--なる(「り」を「る」と誤写、「なり」と訂正した)  
  校訂16 秋の野ら--秋の1ゝ(ゝ/+1羅)(補入符号を入れて細字で「羅」と補訂、書写者の訂正であろう)  
  校訂17 けうとげに--気ゝと遣尓(「う」を「ゝ」と誤写、「けうとげに」と訂正した)  
  校訂18 けうとくも--遣うそくも(「と」を「そ」と誤写、「けうとく」と訂正した)  
  校訂19 人え聞きつけで--人ハきゝ徒気て(「ハ」は「盈」を「者」と誤読し「ハ」と書いたものであろう、「え」と訂正した)  
  校訂20 曹司--さこし(「う」を「こ」と誤写、「さうし」と訂正した)  
  校訂21 消え--きこえ(「こ」は衍字であろう、削除した)  
  校訂22 からうして--可羅△(墨滅)して(元の文字墨滅されて判読不能、「う」とあったものであろうか)  
  校訂23 ある--あり(「なむ」の係結びとして「る」とあるべき、「る」と訂正した)  
  校訂24 阿闍梨--あまり(「さ」を「万」と誤読し「ま」と書いたものであろう、「あさり」と訂正した)  
  校訂25 はべれば--侍ら2ハ(文意からここは未然形ではなく已然形であるべき、「はべれば」と訂正した)  
  校訂26 馬にて--あ万尓て(「む」を「あ」と誤読したか、「むま」と訂正した)  
  校訂27 川の水--かの1みつ1(「は」を脱したか、「かはのみづ」と訂正した)  
  校訂28 なめり--な1め(「り」を脱したか、「なめり」と訂正した)  
  校訂29 一つに--ひとへ尓(「つ」と「へ」の字体が曖昧、「ひとつ」と判読した)  
  校訂30 なかなかいみじく--な可/\しく(形容詞語幹の誤脱があるか、「いみじく」と訂正した)  
  校訂31 身--事(「事」は「身」の誤字であろう、「身」と訂正した)  
  校訂32 承り--うけ給(「給」は「賜」の誤写であろう、「承り」と訂正した)  
  校訂33 また--多1万(「たま」は「また」の誤写であろう、「また」と訂正した)  
  校訂34 折に--可本尓(「かほ」は誤写であろう、「をり」と訂正した)  
  校訂35 赴く--を(を/+1も)むく(補入符号を入れて墨筆細字で「も」と補訂、書写者の訂正であろう)  
  校訂36 はた--い多(「ハ」を「い」と誤写、「はた」と訂正した)  
  校訂37 過ぎゆく--春起(脱字があるか、「ゆく」を補う)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。
 大島本「夕顔」(「大島本源氏物語」影印版・DVD-ROM版)を底本とし、その本行本文と一筆の本文訂正跡を基に本文整定した とのこと。