源氏物語1帖 桐壺 3-4c 藤壺と聞こゆ:逐語対訳

母后 桐壺
第3章
4c
藤壺
源氏の君
原文
定家本
明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
各自要検討
注釈
【渋谷栄一】
各自要検討
藤壺と聞こゆ。 藤壺と申し上げる。 【藤壺ときこゆ】
:「藤壺と申し上げる」。この前に「御局は」などの語句が省略されているのであろう。先帝の四の宮をただ「藤壺」と呼ぶのはおかしい。他では「宮」が付けられて呼称されている。藤壺は飛香舎、清涼殿の北側、弘徽殿の西側にある。『源氏物語』では、この先帝の四の宮(後の藤壺中宮)、その異腹の妹(藤壺女御)など、先帝の四の宮ゆかりの王族の女御が住む。
げに御容貌ありさま、
あやしきまでぞおぼえたまへる。
なるほど、 ご容貌や姿は
不思議なまでによく似ていらっしゃった。
【げに御容貌ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる】
:「げに」(なるほど)とは帝の感想と語り手の感想が一致した表現である。桐壺の桐は薄紫の花をつける。また藤壺の藤も紫色の花をつける。後の紫の上も、その名のとおり「紫」である。なお葵の上との結婚の折の和歌にも「紫」の語句が出てくる。
「紫」(高貴な色であるとともに褪せやすい色でもある)が隠された主題となっている。
     
これは、
人の御際まさりて、
思ひなしめでたく、
この方は、
ご身分も一段と高いので、
そう思って見るせいか素晴らしくて、
【これは人の御際まさりて】
:藤壺をさす。後に「かれは人の許しきこえざりしに」と対比して語る。語り手の両者批評の文章である。
人もえおとしめきこえたまはねば、 お妃方もお貶み申すこともおできになれないので、  
うけばりて飽かぬことなし。 誰に憚ることなく何も不足ない。  
     
かれは、
人の許しきこえざりしに、
御心ざしあやにくなりしぞかし。
あの方は、
周囲の人がお許し申さなかったところに、
御寵愛が憎らしいと思われるほど深かったのである。
【かれは人の許しきこえざりしに御心ざしあやにくなりしぞかし】
:『岷江入楚』所引の三光院説に「草子地批判也」と指摘。
「あやにくなり」「し」(過去の助動詞)「ぞ」「かし」という批評の言は語り手の意見である。しかし、草子地と指摘するなら、「これは」から以下をそうと指摘すべきである。
     
思し紛るとはなけれど、
おのづから御心移ろひて、
こよなう思し慰むやうなるも、
あはれなるわざなりけり。
御愛情が紛れるというのではないが、
自然とお心が移って行かれて、
格段にお慰みになるようなのも、
人情の性というものであった。
【思し紛るとはなけれどおのづから御心移ろひてこよなう思し慰むやうなるもあはれなるわざなりけり】
:『紹巴抄』は「双地なるへし」と指摘。帝の故桐壺更衣を愛情が薄らいでいくのを人間の自然の心のなせるわざとする、語り手の諦観がある。作者の言葉を選んだ微妙な表現である。
「思し」「紛る」(自動詞)であって、「紛らす」(他動詞)とはない。更衣を思う気持ち、愛情が紛れる。
「とはなけれど」、帝自身もちろん、周囲の人の目からもそのように見えるが。
「おのづから」、自然と。
「御心」「移ろひて」、元の人(故桐壺更衣)に対する御愛情が薄れて他の新しい人(藤壺)に移ってゆくようになって、「こよなく」は、以前の「慰むやとさるべき人びとを参らせたまへど」と比較して格段にの意。
「思し」「慰む」、悲しみの気持ちが紛れる、また愛情が紛れる。
「あはれなる」「わざ」「なりけり」、人情の自然というものであった、いかんともしがたい人間の心であるよ、という作者の気持ち。このような人間把握が人間の行動の底流に見据えられて物語は展開していく。
母后 桐壺
第3章
4c
藤壺
源氏の君