源氏物語1帖 桐壺 2-2e 目も見えはべらぬ:逐語対訳

しばしは夢 桐壺
第2章
2e
光にて
命長さの
原文
定家本
明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
各自要検討
注釈
【渋谷栄一】
各自要検討
〔祖母北の方〕
「目も見え
はべらぬに、
〔祖母北の方〕
「目も見え
ませんが、
【目も見えはべらぬに】
:以下「光にてなむ」まで北の方の詞。
「目も見えはべらぬ」(子を亡くした心の闇で)といったのに関連して、「光にて」といった。縁語表現である。以下に「見侍る」などの語句が省略されている。
かく
かしこき
仰せ言を
光にてなむ」
とて、
このような
畏れ多い
お言葉を
光といたしまして」
と言って、
 
見たまふ。 ご覧になる。  
     
〔桐壺帝の文〕
「ほど経ば
すこし
うち紛るる
こともやと、
〔桐壺帝の文〕
「時がたてば
少しは
気持ちの紛れる
こともあろうかと、
 
待ち過ぐす
月日に
添へて、
心待ちに過す
月日が
たつにつれて、
 
いと
忍びがたきは
わりなき
わざになむ。
たいそう
がまんができなくなるのは
どうにもならない
ことである。
 
     
いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、 幼い人をどうしているかと案じながら、  
もろともに育まぬおぼつかなさを。 一緒にお育てしていない気がかりさよ。 【おぼつかなさを】
:「を」は間投助詞、詠嘆の意。また格助詞「を」目的格の意とし、「かたみになずらへて」に係るとも。例えば、「一緒に育てない不安さを(残念に思っているから)」(待井新一)。また接続助詞、順接の意とする説がある。例えば「二人で育てたいのだが、それができないのが気がかりだから」(今泉忠義)。
     
今は、 今は、  
なほ昔のかたみになずらへて、 やはり故人の形見と思って、 【昔のかたみになずらへて】
:わたし(帝)を故人の縁者と思って、の意。また「若宮を亡き更衣の形見と見なす」(待井新一)。さらに母君を形見と見なす説。例えば「娘の身代りに立つつもりになって」(今泉忠義)などがある。
ものしたまへ」 参内なされよ」  
     
など、 などと、  
こまやかに書かせたまへり。 心こまやかにお書きあそばされていた。  
     
〔桐壺帝〕
「宮城野の
 露吹きむすぶ
 風の音に
 小萩がもとを
 思ひこそやれ」
〔桐壺帝〕
「宮中の
萩に野分が吹いて
露を結ばせたり
散らそうとする風の音を聞くにつけ、
幼子の身が
思いやられる」
【宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ】
:帝の歌。我が子の身を案じる意の歌。
「宮城野」は歌枕。宮城県仙台市東部の野、萩の名所として名高い。ここは宮中の意。
「露吹きむすぶ風」は、野分が吹いて急に寒くなり萩に露が置くようになり、また風が吹いてはその露を散らそうとする気掛かりなさま。
「小萩」は歌語。子供を暗喩する。
「結ぶ」は「露」の縁語。
「露」は涙を暗喩する。
「嵐吹く風はいかにと宮城野の小萩が上を人の問へかし」(激しい風が吹いているがいかがですかと宮中の小萩の身の上を見舞いなさい)(新古今集雑下、一八一九、赤染衛門)、「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て」(宮中の根本もまばらな小萩は露が重いので風を待つようにあなたを待っています)(古今集恋四、六九四、読人しらず)。
     
とあれど、 とあるが、  
え見たまひ果てず。 最後までお読みきれになれない。  
しばしは夢 桐壺
第2章
2e
光にて
命長さの