源氏物語1帖 桐壺 1-5b 内裏より御使あり:逐語対訳

愛宕 桐壺
第1章
5b
内裏より
はかなく
原文
定家本
明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
各自要検討
注釈
【渋谷栄一】
各自要検討
内裏より御使あり。 内裏からお勅使が参る。  
     
三位の位贈りたまふよし、 従三位の位を追贈なさる旨を、 【三位の位】
:明融臨模本は「三位」に「ミツ」という訓点あり。また河内本系諸本に「みつのくらゐ」とある。正四位上であった更衣に従三位の位を追贈した。
勅使来てその宣命読むなむ、 勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、  
悲しきことなりける。 悲しいことであった。  
     
女御とだに言はせずなりぬるが、 せめて女御とだけでも呼ばせずに終わったのが、 【女御とだに】
:以下「贈らせたまふなりけり」まで、従三位の位を追贈した帝の胸中を補足説明した語り手の文章である。『弄花抄』は「そのいはれを釈したる詞也」と指摘し、『紹巴抄』は「双地の注也」と指摘。
「后(皇后・中宮)どころか、女御とさえよばせないでしまったことが。
「だに」は、軽いものをあげて重いものを言外に類推させる語で、「--さえ」の意」(待井新一)。
あかず口惜しう思さるれば、 心残りで無念に思し召されたので、  
いま一階の位をだにと、 せめてもう一段上の位階だけでもと、  
贈らせたまふなりけり。 御追贈あそばすのであった。  
     
これにつけても憎みたまふ人びと多かり。 このことにつけても非難なさる方々が多かった。  
     
もの思ひ知りたまふは、 物事の情理をお分かりになる方は、  
様、 容貌などのめでたかりしこと、 姿態や容貌などが素晴しかったことや、 【様容貌などのめでたかりしこと心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしこと】
:「--こと」「--こと」という並列の構文。桐壺更衣の美点である。姿形の美しさ、気立てのよさを挙げる。
心ばせのなだらかにめやすく、 気立てがおだやかで欠点がなく、  
憎みがたかりしことなど、 憎み難い人であったことなどを、  
今ぞ思し出づる。 今となってお思い出しになる。  
     
さま悪しき御もてなしゆゑこそ、 見苦しいまでの御寵愛ゆえに、 【さま悪しき】
:以下「御心を」まで、主上付きの女房の詞と見ることも可能である。
「こそ」--「しか」(過去助動詞)の係結びがあり、見聞者たちの発言のニュアンスである。ただ、末尾の「を」は詠嘆の終助詞であるとともに、以下の文がうける格助詞でもあり、地の文になるという構造である。
すげなう嫉みたまひしか、 冷たくお妬みなさったのだが、  
人柄のあはれに情けありし御心を、 性格がしみじみと情愛こまやかでいらっしゃったご性質を、  
主上の女房なども恋ひしのびあへり。 主上づきの女房たちも互いに恋い偲びあっていた。  
     
なくてぞとは(付箋②)、
かかる折にやと見えたり。
亡くなってから人はと言うことは、
このような時のことかと思われた。
【なくてぞとは】
:『源氏釈』は「ある時は有りのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」(生きていた時は生きているというだけで憎らしかったが、死んでみると恋しく思い出されるものだ)(出典未詳、源氏釈所引)を指摘。明融臨模本は付箋でこの引歌を指摘する。類歌に「ある時は有りのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」(生きていた時はいいかげんに親しくしなかったが恋しい人だと別れてから知った)(古今六帖第五、物語、二八〇五)というのがある。以下「見えたり」まで、『岷江入楚』は「前を釈しめして物語の作者の評したる詞歟」と指摘する。
「見えたり」と判断するのは語り手である。
愛宕 桐壺
第1章
5b
内裏より
はかなく