源氏物語1帖 桐壺 1-4c 限りあらむ道:逐語対訳

限りあれば 桐壺
第1章
4c
限りあらむ道
御胸つと
原文
定家本
明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
各自要検討
注釈
【渋谷栄一】
各自要検討
〔桐壺帝〕
「限りあらむ
道にも、
後れ
先立たじ
と、
〔桐壺帝〕
「死出の
旅路にも、
後れたり
先立ったりするまい
と、
【限りあらむ道にも後れ先立たじ】
:以下「え行きやらじ」まで、帝の詞。
「それぞれに寿命の定められた人生であっても、あなたに先立たれ残されたり、また自分が先立ったりすることは、お互いにするまい、死ぬ時は一緒にと、お約束なさったのに。いくら何でも、わたし独りを残しては逝かすまい」の意。偕老同穴を契った。なお、『新大系』は「契らせたまひけるを」までを地の文と解する。
契らせ
たまひけるを。
お約束
あそばしたものを。
【契らせたまひけるを】
:「せたまひ」最高敬語。桐壺更衣の行為に対して使用。最高敬語は会話文の場合には帝以外の人(女房どうしの場合でも)に対しても使用される。なお『新大系』では地の文として、帝の行為に対する敬語とする。
「を」について、接続助詞、順接の意(約束してをられたのだから)と解する説(今泉忠義・待井新一・新大系)、逆接の意(お約束なさったのに)と解する説(集成)、間投助詞、詠嘆の意(お約束なさったのだもの)と解する説(玉上琢弥・古典セレクション)等がある。会話文中の「を」なので、間投助詞、詠嘆の意が最も適切であろう。
     
さりとも、 いくらそうだとしても、 【さりとも】
:接続詞。
「さ」は更衣の重体をさす。
うち捨てては、
え行きやらじ」
置いてけぼりにしては、
行ききれまい」
【え行きやらじ】
:「え」(副詞)--「じ」(打消の助動詞、意志)で不可能の意を表す。
「やる」は補助動詞、その動作を最後までやり終える意を表す。下に打消の語を伴うと、最後まで--しきれない、完全に--できない、の意を表す。
「行(ゆ)く」には、「里へ行く」意と、「逝く」意とが重ねられている。明融臨模本「えゆきやらし」とある。
「えいきやらし」だと「行き」に「生き」を響かすことになってしまう。
     
とのたまはするを、 と仰せになるのを、  
女もいといみじと、 女もたいそう悲しいと、 【女も】
:桐壺更衣を「女」と表現した。この物語では、身分を超越した男と女との恋の場面に、「男」「女」という呼称が使用される。
見たてまつりて、 お顔を拝し上げて、  
     
     
〔桐壺更衣〕
「限りとて
別るる道の
悲しきに
いかまほしきは
命なりけり
〔桐壺更衣〕「人の命には限りがあるものと、
今、 別れ路に立ち、
悲しい気持ちでいますが、
わたしが行きたいと思う路は、
生きている世界への路でございます。
【限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり】
:更衣の歌。
「限りとて」は、帝の詞「限りあらむ道」に応えたもの。
「人の寿命は定めがあるものと諦めてはみても」。
「別るる道の」は、「里下がりのために別れる道」と「死出の道」との両意を掛ける。辞世の歌である。格助詞「の」は、同時に二つの機能をはたす。主格を表して、「別路が悲しいこと」。連体格を表して、「別路の悲しさ」。そして、第二句と第三句とを結び付けてゆく働きをもする。
「悲しきに」の接続助詞「に」は、前者の文脈では、原因・理由の意を含んだ順接の働きをして、「別路が悲しいことなので」の意。後者の文脈では、逆接の働きをして、「別路の悲しさがあるけれども」の意となる。助詞の「の」や「に」の機能は、最後まで読まないと判断できない。上の句までの段階では、どちらとも判断できない。したがって、両意を合わせて読んでいくのが正しい読み方である。さて、両意の文脈を呼び込みながら、下句へと繋がっていくと、第四句「行(い)かまほしきは」の「行く」は、「行(い)く」と、「生(い)く」との両意を掛ける。明融臨模本「いかまほしき」とある。ここは「ゆかまほしき」ではない。
「まほし」は希望・願望の助動詞。
「わたしが生きて行きたいと思うのは」。第一句第二句で既に、この別れが永遠の別れになることを悟っている更衣が、再びここで「いかまほし」というのは、限りない生への願望と執着が表されている。したがって、上句と下句は、逆接の文脈と考えられる。
「悲しいけれど、それはわかっているが、やはり、わたしの生きて行きたいと思う道は」となる。第五句「いのちなりけり」は、「寿命であることよ」「最期であることよ」「運命であることよ」等、さまざまな意がこめられている。一つのことばで表現してしまったら、この句がもっている豊かな表現性が削がれてしまう。
「生きて行きたいのは、生の道なのでございます」、「生きて行きたいのは、生の道なのですが、それも叶わぬ寿命なのでございます」等。『全集』は「別れ路はこれや限りの旅ならむさらにいくべき心地こそせね」<別れはこれが最期の死出の旅路の別れとなろう、まったく生きていけそうな気がしません>(新古今集、離別、八七二、道命法師)を指摘する。
     
いと
かく
思ひたまへ
ましかば」
と、
ほんとうに
このようになると
存じておりました
ならば」
と、
【いとかく思ひたまへましかばと】
:「いとかく」について、「ほんとにこんなことになろうと存じておりましたならば。(もっと申しあげておくことがたくさんございましたのに。)」「かく」は歌の意味(死別すること)をさす」(待井新一・今泉忠義・玉上琢弥・集成)、「ここでは初めからこうなることが分っていたら、なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに、の意か。」(古典セレクション)などあるが、「まことにこのように(右の歌のごとくに)考えさせていただいてよいのであったら--。
「かく」は歌の中の生きたいという思いを指す。生きる希望を満たされるのらうれしかろうに、そうでないのは悲しく無念だ、と万感を言いさす」(新大系)とあるように、「かく思ひたまへ」は右の歌の主旨をさし、「いかまほしきは命なりけり」がその直接的内容である。
「ましか」は反実仮想の助動詞。
「--ならば」。この後に、「--すべきであった」という内容の述語が省略されている。なお、青表紙本の肖柏本は、「ましかばと」の「と」がナシ、大島本は「と」を補入している。
「ほんとうに、生きていたいと存じておりましたならば、もっと、気持ちを強く持ち、そして帝の御愛情にお応えすべきであったのに。それもできずにまことに無念です」というような内容である。
息も絶えつつ、 息も絶えだえに、  
聞こえまほしげなることはありげなれど、 申し上げたそうなことはありそうな様子であるが、  
いと苦しげにたゆげなれば、 たいそう苦しげに気力もなさそうなので、  
かくながら、
ともかくも
ならむを
御覧じはてむと
思し召すに、
このままの状態で、
最期となってしまう
ようなことも
お見届けしたいと、
お考えあそばされるが、
【かくながらともかくもならむを御覧じはてむと】
:「かく」は、更衣を宮中に置いたままの状態をさす。
「ともかくもならむ」とは、最悪の状況を想定している。宮中は死穢を忌む場所である。その死の禁忌も憚らない帝の悲壮な気持ちが窺える。帝の心と地の文が融合した形。
     
「今日始むべき祈りども、 「今日始める予定の祈祷などを、 【今日始むべき】
:以下「今宵より」まで、更衣の里邸からの使者の伝言。詞の語順が整っていなところに、緊迫感が表出されている。
さるべき人びとうけたまはれる、 しかるべき僧たちの承っておりますのが、  
今宵より」と、 今宵から始めます」と言って、  
聞こえ急がせば、 おせき立て申し上げるので、  
わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。 やむを得なくお思いあそばしながら退出させなさる。 【まかでさせたまふ】
:「させ」使役の助動詞。帝が桐壺更衣を退出おさせになる。
限りあれば 桐壺
第1章
4c
限りあらむ道
御胸つと