枕草子 補 硯きたなげに塵ばみ(能因本:旧全集219段)

大蔵卿 枕草子
下巻中
補13
硯きたなげに
補14
人の硯を

(旧)大系,新大系,新編全集=三巻本:ナシ
(旧)全集=能因本:219段
三巻本になく能因本のみにある段は、著者が身内本たる能因本からより広い世間の目を意識し(最終段:人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば)、なかったことにして改訂したものと解する(独自)
 


 
 硯きたなげに塵ばみ、墨の片つ方に、しどけなく磨(す)り平(ひら)め、頭(かしら)大きになりたる筆に、かささしなどしたるこそ、心もとなしとおぼゆれ。
 よろづの調度はさるものにて、女は、鏡、硯こそ、心のほど見ゆるなンめれ。
 置き口のはざめに塵ゐなど、うち捨てたるさま、こよなしかし。
 
 男はまして、文机(ふづくゑ)に清げに押しのごひて、ニつの懸子(かけご)の硯の、いとつきづきしう、蒔絵のさまも、わざとならねど、をかしうて、墨、筆のさまも、人の目とどむばかりしたてたるこそをかしけれ。
 とあれどかかれど、同じ事とて、黒箱の蓋もかたしおちたる、硯わづかに墨の磨られたる方ばかり黒うて、そのほかは瓦の目にしたがひて入りあたる塵の、この世には払ひがたげなるに、水うちながして、青磁(あをじ)のかめの口落ちて、頸のかぎり、穴のほど見えて、人わろきなども、つれなく人の前にさし出づかし。