枕草子 補 人の硯を引き寄せて(能因本:旧全集220段)

補13
硯きたなげ
枕草子
下巻中
補14
人の硯を
補15
めづらしと

(旧)大系,新大系,新編全集=三巻本:ナシ
(旧)全集=能因本:220段
三巻本になく能因本のみにある段は、著者が身内本たる能因本からより広い世間の目を意識し(最終段:人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば)、なかったことにして改訂したものと解する(独自)
 


 
 人の硯を引き寄せて、手習ひをも文をも書くに、「その筆な使ひたまひそ」と言はれたらむこそ、いとわびしかるべけれ。
 うち置かむも、人わろし、なほ使ふもあやにくなり。
 
 さおぼゆる事も知りたれば、人のするも言はで見るに、ことに手などよくもあらぬ人の、さすがに物書かまほしうするが、いとよく使ひかためたる筆を、あやしのやうに、水がちにさし濡らして、「こは物ややり」とかなにぞ、細櫃(ほそびつ)の蓋などに書き散らして、横ざまに投げ置きたれば、水に頭(かしら)はさし入れて伏せるも、にくき事ぞかし。されど、さ言はむやは。
 
 人の前にゐたるに、「あな暗。奥寄りたまへ」と言ひたるこそ、またわびしけれ。
 さしのぞきたるを見つけては、おどろき言はれたるも。思ふ人のことにはあらずかし。