枕草子 補 わが心にもめでたくも(能因本特有跋:旧全集323段)

この草子 枕草子
下巻下
補16
わが心に
   

(旧)大系,新大系,新編全集=三巻本:ナシ
(旧)全集=能因本:323段, 前田本堺本:ナシ
三巻本になく能因本のみにある段は、著者が身内本たる能因本からより広い世間の目を意識し(最終段:人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば)、なかったことにして改訂したものと解する(独自)。
この点、旧全集は本段につき「この段は三二一段·三二二段とほぼ同じ内容を伝えるものの、本文にかなり大きな差があって、単なる異文とは考えにくい。本来三二一段·三二二段のみの跋文がこの底本にあったもので、三二三段は別の本の跋を集成して更につけ加えたものかと考えられている。その場合、おのおのの跋文のどれを本来的なものと認めるかについては、諸説があって定めにくい」とするが上記のように解すべきである。本段の物知らぬ者は真意を解せないという顕著な判的的内容が三巻本でなくなること、「内の大殿」「古今をや書かまし」「済政の式部の君など、つぎつぎ聞き」「かく笑はるる」という本人しか書きえない内容かつ書写の過程で欠落しえない顕著な特有の描写があることから、第三者が現存しない本の内容を集成したものと見るのは無理があり、著者の原初の草稿と解さないと通らない
(本段→能因跋→三巻本最終段)
 


 
 わが心にもめでたくも思ふ事を、人に語り、かやうにも書きつくれば、君の御ためかるがるしきやうなるも、いとかしこし。
 されど、この草子は、目に見え心に思ふ事の、よしなくあやしきも、つれづれなるをりに、人やは見むとするに思ひて書きあつめたるを、あいなく人のため便なき言ひ過ごししつべき所々あれば、いとよく隠しおきたりと思ひしを、涙せきあへずこそなりにけれ。
 

 宮の御前に、内の大殿の奉らせたまへりける草子を、「これに何をか書かまし」と、「うへの御前には史記といふ文をなむ、一部書かせたまふなり。古今をや書かまし」などのたまはせしを、「これ給ひて、枕にしはべらばや」と啓せしかば、「さらば得よ」とて給はせたりしを、持ちて、里にまかり出でて、御前わたりの恋しく思ひ出でらるる事あやしきを、こじや何やと、つきせずおほかる料紙を書きつくさむとせしほどに、いとど物おぼえぬ事のみぞおほかるや。
 

 これは、また、世ノ中にをかしくもめでたくも人の思ふべき事を選り出でたるかは。
 ただ心一つに思ふ事をたはぶれに書きつけたれば、物に立ちまじり、人並み並みなるべき物かはと思ひたるに、「はづかし」など、見る人の、のたまふらむこそあやしけれ。
 また、それもさる事ぞかし。
 人の、物のよしあし言ひたるは、心のほどこそおしはからるれ。
 ただ人に見えそむるのみぞ、草木の花よりはじめて虫にいたるまで、ねたきわざなる。
 何事もただわが心につきておぼゆる事を、人の語る歌物語、世のありさま、雨、風、霜、雪の上をも言ひたるに、をかしく興ある事もありなむ。
 また、「あやしくかかる事のみ興あり、をかしくおぼゆらむ」と、そのほどのそしられば、罪さり所なし。
 さて人並み並みに、物に立ちまじらはせ、見せひろめかさむとは思はぬものなれば、えせにも、やさしくも、けしからずも、心づきなくもある事どももあれど、わざと取り立てて、人々しく人のそしるべき事もあらず。
 

 上手の歌をよみたる歌を、物おぼえぬ人は、そしらずやはある。
 かりのこ食はぬ人もあンめり。
 梅の花をすさまじと思ふ人もありなむ。
 ざいけのこは、あさがほ引き捨てずやはありける。
 さやうにこそは、おしはからめ、げになまねたくもおぼえぬべき事ぞかし。
 されどなほこのすずろ事の、知らぬばかり好ましくておかれぬをばいかがせむずる。
 

 権中将のいまだ伊勢の守と聞えし時におはしたるに、端の方なる畳押し出でてするたてまつりしに、にくき物とは、草子ながら乗りて出でにけり。
 まどひて取らむとするほどに、長やかにさし出でむかひなつきもかたはなるも思ふに、「けしきの物かな」とて、取りてやがて持ておはしにしより、ありきはじめて、済政の式部の君など、つぎつぎ聞きてありきそめて、かく笑はるるなンめりかしと。
 


この草子 枕草子
下巻下
補16
わが心に