枕草子は、人ごとに持たれども、まことによき本は世にありがたき物なり。
これもさまではなけれど、能因が本と聞けば、むげにはあらじと思ひて、書き写してさぶらふぞ。
草子がらも手がらもわろけれど、これはいたく人などに貸さでおかれさぶらふべし。
なべておほかる中に、なのめなれど、なほこの本もいと心よくもおぼえさぶらはず。
さきの一条院の一品の宮の本とて見しこそ、めでたかりしか、と本に見えたり。
これ書きたる清少納言は、あまり優にて、並み並みなる人の、まことしくうちたのみしつべきなどをば語らはず、艶(えん)になまめきたる事をのみ思ひて過ぎにけり。
宮にも、御世衰へにける後には、常にも候はず。
さるほどに失せたまひにければ、それを憂き事に思ひて、またこと方ざまに身を思ひ立つ事もなくて過ぐしけるに、さるべくしたしくたのむべき人も、やうやう失せ果てて、子などもすべて持たざりけるままに、せんかたもなくて、年老いにければ、さま変へて、乳母子のゆかりありて、阿波の国に行きて、あやしき萱屋(かやや)に住みける。
つづりといふ物をぼうしにして、あをなといふ物乾(ほ)しに、外に出でて帰るとて、「昔の直衣姿こそ思ひ出でらるれ」と言ひけむこそ、なほ古き心の残れりけるにやと、あはれにおぼゆれ。
されば、人の終りの、思ふやうなる事、若くていみじきにもよらざりけるとこそおぼゆれ。