「『園の別当入道はさうなき庖丁者なり。ある人のもとにて、いみじき鯉をいだしたりければ、みな人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうちいでむもいかがとためらひけるを、別当入道さる人にて、「このほど百日の鯉を切り侍るを、けふ欠き侍るべきにあらず。まげて申しうけむ」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりける。』と、ある人、北山の太政入道殿に語り申されたりければ、
『かやうのこと、おのれはよにうるさくおぼゆるなり。「切りぬべき人なくばたべ。切らむ」といひたらむはなほよかりなむ。なんでふ百日の鯉を切らむぞ。』と宣ひたりし、をかしくおぼえし」と人の語り給ひける、いとをかし。
おほかた、ふるまひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、まさりたることなり。
まれ人の饗応なども、ついでをかしきやうに取りなしたることもまことによけれども、ただそのこととなくて取りいでたる、いとよし。
人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らむ」といひたる、まことの志なり。
惜しむよしして乞はれむと思ひ、勝負の負けわざにことつけてなどしたる、むつかし。