章題 読み方 |
原文冒頭 | |
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概要※ | ||
1 |
厳島御幸 いつくしまごこう |
治承四年正月一日、鳥羽殿には、相国もゆるさず |
治承4年 (1180年) 高倉天皇は譲位。安徳天皇が3歳で即位。 | ||
1-2 |
還御 かんぎょ 異:厳島御幸 付 安徳天皇御即位 |
同じき二十六日、厳島へ御参着 |
高倉上皇は厳島御幸から帰る。安徳天皇の即位式。 | ||
2 |
源氏揃 げんじぞろえ |
蔵人権佐定長、今度の御即位に違乱なく |
以仁王は後白河法皇の三男。源頼政が謀反をもちかける(以仁王の挙兵)。 「太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや」 |
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3 |
鼬之沙汰 いたちのさた |
さるほどに法皇は、「成親、俊寛がやうに |
以仁王謀反の情報が清盛へ届く。 | ||
4 |
信連 のぶつら 異:信連合戦 |
宮は五月十五夜の雲間の月をながめさせ給ひ |
以仁王の部下長谷部信連は、以仁王を女装させ高倉御所から逃がした。 | ||
5 |
競 きおう |
さるほどに、宮は高倉を北へ、近衛を東へ |
〔以仁王は三井寺に入り、頼政が謀反を企てた背景の説明〕清盛の次男、宗盛は源頼政の子源仲綱の馬を奪ったことがあった〔その馬を仲綱と名付けて乗り回し屈辱を与えた〕。それで仲綱の家来渡辺競は宗盛から白馬をだましとった。 | ||
6 |
山門牒状 さんもんへのちょうじょう 異:牒状 |
さるほどに、三井寺には貝、鐘鳴らいて |
以仁王が逃げ込んだ近江国園城寺(三井寺)から延暦寺に協力要請。 | ||
6-2 |
南都牒状 なんとちょうじょう 異:牒状 |
山門の大衆この状を披見して |
〔比叡山は協力要請を無視〕三井寺から奈良興福寺へも協力要請。〔そこには、近く出発するが状を察して疑わないでほしいとあった〕 | ||
7 |
永僉議 ながのせんぎ 異:大衆揃 |
三井寺には貝、鐘鳴らいて、また大衆詮議す。 |
〔興福寺が来ないので〕三井寺は清盛邸を夜討ちする会議をし、京へ向かう。 | ||
7-2 |
大衆揃 たいしゅぞろえ |
からめ手に向かふ老僧どもの大将軍には、 |
しかし夜明けになってしまい、夜討ちは中止。以仁王らは奈良へ向かう。 | ||
8 |
橋合戦 はしがっせん |
さるほどに、宮は宇治と寺との間にて |
以仁王らは途中、宇治平等院で休息。そこを平知盛・重衡軍が攻める(『玉葉』によれば重衡・維盛軍)。頼政は宇治橋の橋板をはずす。平家軍は、「先陣が、橋をひいたぞ、あやまちすな、とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、われさきにとすすむほどに、先陣二百余騎、おしおとされ、水におぼれて流れけり」となった。 | ||
9 |
宮御最期 みやのごさいご 異:宮最後 |
足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂に |
頼政も以仁王も戦死。 「いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すじたちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頸とられさせ給ひけり」 |
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10 |
若宮出家 わかみやしゅっけ |
平家の人々は、宮並びに三位入道の一類 |
以仁王の子、若宮は出家を条件に助命。 | ||
10-2 |
通乗之沙汰 とうじょうのさた |
また奈良にも御一所ましましけるをば、 |
昔、通乗という名人相見がいたが、以仁王の人相見ははずれた。 | ||
11 |
鵼 ぬえ |
そもそも源三位入道頼政と申すは |
頼政は以前化け物の鵼を退治したことがあった〔という〕。 「頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける。おそろしなんどもおろかなり」 |
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12 |
三井寺炎上 みついでらえんじょう |
日頃は山門の大衆こそ |
三井寺は平重衡・忠度軍に攻められ炎上。 |
※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。