章題 読み方 |
原文冒頭 | |
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概要※ | ||
1 |
逆櫓 さかろ |
元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経、院参して |
元暦2年 (1185年) 屋島を攻めるにあたり、逆櫓について義経と梶原が激論( 逆櫓:船尾をさきにして船を進めること。また、通常の櫓とは反対の向きにつける櫓。源義経が屋島の平家を攻めるために摂津渡辺で舟揃をした際、逆櫓をつけることを主張する梶原景時と烈しく口論したとの逸話を載せる。逆櫓とは何かと問う義経に、景時は「舟はきっとをとしもどすが大事に候。艫舳(ともへ)に櫓をたてちがへ、脇楫(わいかぢ)をいれて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」と答えるが、そのような櫓のつけ方が実在したかどうかは不明である。以上「逆櫓」リンク先より引用)。その夜に強風を使い、義経は6時間ほどで摂津国(大阪兵庫)から阿波国(徳島)へ渡った。「夜もすがらはしる程に、三日にわたる処をただ三時ばかりにわたりけり」 | ||
2 |
勝浦 付 大坂越 かつうら つけたりおおさかごえ 異:大坂越/勝浦合戦 |
明けければ、渚には赤旗少々ひらめいたり |
義経は阿波国から讃岐国へ一晩で移動。80騎ほどを大軍と見せかけて屋島の戦いを開始。 「さだめて大勢でぞ候らん。とりこめられてはかなふまじ」と平家は船に逃げる。 |
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(大坂越) | 判官、親家を召して、「これより八島へは幾日路ぞ」 | |
3 |
嗣信最期 つぎのぶさいご 異:八嶋軍 やしまのいくさ |
判官その日の装束には、赤地の錦の直垂に |
佐藤継信は義経の楯となって死んだ。 | ||
4 |
那須与一 なすのよいち 異:扇 おうぎ |
さる程に、阿波、讃岐に平家を背いて |
那須与一が相手陣に立てられた扇を矢でねらう。 「あやまたず扇の要際一寸ばかりを射て、ひふっとぞ射切ったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける」 |
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5 |
弓流 ゆみながし |
感に堪へずとおぼしくて、平家の方より |
義経は弓を落とすが、命がけで拾い上げる。 「わう弱たる弓のかたきのとりもって、『これこそ源氏の九郎義経が弓よ』とて、嘲弄せんずるが口惜しければ、命にかへてとるぞかし」 |
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6 |
志度合戦 しどかっせん 異:志度裏合戦 しどのうらがっせん |
明けければ、平家は当国志度浦へ漕ぎしりぞく |
志度合戦でも平家は退却。平家は壇ノ浦の先、彦島へ。 | ||
7 |
鶏合 壇浦合戦 とりあわせ だんのうらがっせん 異:壇浦合戦 |
さるほどに、判官は周防の地に押し渡つて |
壇ノ浦の戦いが始まる。また義経と梶原が仲間割れ。 | ||
8 |
遠矢 とおや 異:先帝身投 |
源氏の方には、和田小太郎義盛 |
源平で矢の飛ぶ距離を競って戦う。 「源平の国あらそひ、今日をかぎりとぞ見えたりける」 |
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8-2 |
先帝身投 せんていみなげ |
さるほどに源氏の兵ども、平家の船に乗り移りければ、 |
もはやこれまでと、清盛の妻平時子は、孫、安徳天皇を抱いて入水。 「其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底にぞ入り給ふ」 |
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9 |
能登殿最期 のとどののさいご |
女院はこの有様を見参らせ給ひて |
安徳天皇の母平徳子も入水するが、源氏方に助けられる。平宗盛親子も浮いて源氏が助けた。教盛の次男能登守平教経は「われと思はん者どもは、寄って教経にくんでいけどりにせよ」と言い、向かってきた源氏の武士2人を道連れに入水(『吾妻鏡』は教経は一ノ谷で戦死したと書いている。一方『玉葉』は首渡の時点で教経は現存と書く)。 | ||
10 |
内侍所都入 ないしどころのみやこいり |
新中納言知盛卿、「見るべきほどのことをば見つ |
「見るべきほどの事は見つ。いまは自害せん。」 と中納言平知盛も入水。戦いは終わった。義経は草薙の剣を回収できなかった。 |
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11 |
剣 けん |
我が朝には神代より伝はれる霊剣三つあり |
草薙の剣の由来を解説。 | ||
12 |
一門大路渡 いちもんおおじわたし 異:大臣殿被渡 おおいどのわたされ |
二の宮かへりいらせ給ふと聞こえしかば |
平宗盛を筆頭に、生け捕りの平家が都に入り、引き回し。 「同廿六日、平氏のいけどりども京へいる。みな八葉の車にてぞありける。前後の簾をあげ、左右の物見を開く」 |
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(鏡) | 六条を東へ河原まで渡されて、 | |
13 |
鏡 かがみ |
さるほどに、四月二十八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝 |
神鏡の由来を解説。天照大神の形見。 | ||
14 |
文之沙汰/文沙汰 ふみのさた |
平大納言時忠卿は、判官の宿所近うおはしけるが |
源義経は平時忠の娘を妻にする。 | ||
15 |
副将被斬/副将誅 ふくしょう(の)きられ |
さるほどに、元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経 |
賀茂の河原で宗盛の次男副将が切られた。 | ||
16 |
腰越 こしごえ |
元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経 |
義経は宗盛親子をつれて鎌倉へ。ただし梶原の讒言で義経は腰越で止められ、鎌倉に入れてもらえない。 「梶原さきだって鎌倉殿に申しけるは、日本国は今はのこる所なうしたがひ奉り候。ただし御弟九郎大夫判官殿こそ、つひの御敵とは見えさせ給ひ候へ」 |
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17 |
大臣殿被斬 おおいどのきられ |
さるほどに鎌倉殿、大臣殿に対面あり |
平宗盛と長男平清宗は近江国で切られた。 「大臣殿念仏をとどめて、「右衛門督もすでにか」と宣ひけるこそ哀れなれ。公長うしろへ寄るかと見えしかば、頸はまへにぞ落ちにける」 |
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18 ※ |
重衡被斬/重衡誅 しげひらのきられ |
本三位中将重衡卿は、狩野介宗茂に預けられて |
三位中将平重衡は奈良で切られた。 「高声に十念となへつつ、頸をのべてぞきらせられける」 |
※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。
※重衡被斬は覚一本(及び大系・全集)は十一巻末尾、正節本(及び全注釈)は十二巻冒頭。