章題 読み方 |
原文冒頭 | |
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概要※ | ||
1 |
山門御幸 さんもんごこう |
寿永二年七月二十四日の夜半ばかり |
比叡山に逃げていた後白河法皇を義仲が守護し入京。平家追討の院宣。 「同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る」 |
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2 |
名虎/那都羅 なとら 異:山門御幸 |
同じき八月十日、木曾は左馬頭になつて |
平家は太宰府へ落ちる。後鳥羽天皇が4歳で即位。 「同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾は左馬頭になって、越後国を給わる」 |
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2-2 | 異:名虎 | 八月二十日、都には法皇の宣命にて |
2-3 | 異:小手巻 | 平家は筑紫にてこの由を伝へ聞き給ひて、 |
3 |
緒環/小手巻 おだまき 異:宇佐行幸 |
(さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども)平家は筑紫に都を定めて、内裏造らるべしと、公卿詮議ありしかども、都もいまだ定まらず。 |
豊後の緒方維義に平家追討の命が下る。 | ||
3-2 | 異:緒環 | 豊後国は、刑部卿三位頼輔卿の国なりけり。 |
4 |
太宰府落 だざいふおち |
さるほどに、平家は筑紫に都を定め、内裏つくらるべしと、公卿詮議ありしかども、維義が謀反と聞いて大きに恐れ騒がれけり。 |
緒方に攻められた平家は太宰府から撤退し、讃岐国の屋島へ行く。「平家は、緒方三郎維義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞えしかば、とる物もとりあへず太宰府をこそおち給へ」 | ||
5 |
征夷将軍院宣 せいいしょうぐんのいんせん |
さるほどに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝 |
頼朝が征夷大将軍の院宣を受けた(寿永二年十月宣旨は、徴税権など頼朝の東国支配を認めたもの。頼朝の征夷大将軍就任は1183年ではなく、1192年)。 | ||
6 |
猫間 ねこま |
泰定都へ上り院参して、御坪の内に畏まつて |
猫間中納言藤原光隆を義仲は「猫殿」と呼び、「猫の食べ残しですな」と無作法に接待。 「猫殿は小食にあはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひたり。」 |
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7 |
水島合戦/水嶋合戦 みずしまかっせん |
さるほどに、平家、讃岐の八島へ渡り給ひて後 |
備中国の海戦水島の戦いで知盛・教経(『玉葉』によれば大将は重衡)の平家軍が義仲軍に勝った。 | ||
8 |
瀬尾最期/瀬尾最後 せのおさいご |
木曾左馬頭この由を聞いて、安からぬ事なりとて |
瀬尾兼康は、倶利伽羅の戦い以後、源氏の下で働いていたが裏切った。結局福隆寺縄手の戦いで殺された。 | ||
9 |
室山 むろやま 異:室山合戦 |
さるほどに、備中国万寿の荘にて勢揃へして |
播磨国室山の戦いで平知盛・重衡軍は源行家軍に勝利。 「平家は室山、水島二ヶ度のいくさに勝ってこそ、いよいよ勢はつきにけれ」 |
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10 |
鼓判官 つづみほうがん 異:法住寺合戦 |
およそ京中には源氏の勢満ち満ちたり |
養和の飢饉の影響もあり、義仲は京の治安維持に失敗。木曾勢は暴徒化。 「凡そ京中には源氏みちみちて(中略)人の倉をうちあけて物をとり、持ってとほる物をうばひとり、衣装をはぎとる」 後白河法皇が敵対したため、義仲は後白河の御所、法住寺を攻める。 |
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10-2 |
法住寺合戦 ほうじゅうじかっせん |
たとへば都の守護してあらんずるものの |
法住寺合戦に勝ち、義仲は後鳥羽天皇や後白河法皇を幽閉。 「主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうど思へども、童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白にならう」 |
※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。