章題 読み方 |
原文冒頭 | |
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概要※ | ||
1 |
都遷 みやこうつり |
治承四年六月三日、福原へ御幸なるべしと聞こゆ |
福原へ遷都。「治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり」 | ||
1-2 | 異:月見 上 | 何者のしわざにやありけん、旧き都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書き付けける。 |
1-3 | 異:[新都沙汰] | 同じき六月九日、新都の事初めあるべしとて、 |
2 |
月見 つきみ 異:月見 下 |
六月九日、新都の事始め、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。 |
徳大寺実定は帰京し、旧都の近衛河原で姉の多子(まさるこ。別称「二代の后」巻第一参照)と一晩月を見る。 | ||
3 |
物怪之沙汰 もつけのさた 異:物怪 |
都を福原へ遷されて後、平家の人々夢見も悪しう |
福原の清盛の屋敷に物の怪が出る。 「ある夜入道のふし給へるところに、一間にはばかる程の物の面いできて、のぞき奉る」 |
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4 |
早馬 はやうま 異:大庭早馬 おおばのはやうま |
さるほどに、同じき九月二日、相模国の住人、大庭三郎景親 |
源頼朝謀反の連絡が早馬で来た。「去んぬる八月十七日、伊豆の国流人前兵衛佐頼朝、舅北条四郎時政を遣はして、伊豆国の目代、和泉判官兼隆を、やまきが館にて夜討ちに討ち給ひぬ」 ただし頼朝は石橋山の戦いで敗北。 |
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4-2 | 異:朝敵揃 | 平家の人々、都遷りの事も、はや興冷めぬ。 |
5 |
朝敵揃 ちょうてきぞろえ |
それ我が朝に朝敵の始めを尋ぬるに、昔、神武帝の御宇四年 |
日本の朝敵の歴史一覧。 | ||
5-2 |
異:鷺沙汰 さぎのさた |
この世こそ王位もむげに軽けれ。 |
6 |
咸陽宮 かんようきゅう |
また異国に先蹤をとぶらふに、燕の太子丹 |
荊軻が秦の始皇帝暗殺に失敗した挿話。 | ||
7 |
文覚荒行 もんがくのあらぎょう |
然るにかの頼朝は、去んぬる平治元年十二月 |
頼朝に謀反をそそのかした文覚上人とは何者か? 以後4話は文覚について。 | ||
8 |
勧進帳 かんじんちょう |
その後文覚は、高雄といふ山の奥に |
文覚は神護寺の修繕を希望し、後白河法皇の前で勧進帳を読み上げた。 | ||
9 |
文覚被流 もんがく(が)ながされ |
折節御前には、妙音院の太政大臣殿 |
文覚は後白河の怒りを買い、伊豆に流された。 | ||
10 |
福原院宣 ふくはらいんぜん 異:[伊豆院宣] |
当国の住人、近藤四郎国高に仰せて、名古屋が奥にぞ住まひける |
「いまは源平のなかに、わとの程将軍の相持ったる人はなし。はやはや謀反おこして、日本国したがへ給へ」 と頼朝をそそのかし、文覚は後白河法皇から平家討伐の院宣をもらってきた。 |
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11 |
富士川 ふじがわ 異:[東国下向] |
さるほどに、福原には公卿詮議あつて |
富士川の戦い。平家軍の大将は重盛の長男維盛、副将は忠度(清盛の異母弟)。富士川をはさんで源氏軍と対峙したが、夜間戦わずに逃走。 「その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん。ただ一度にばっと立ちける羽音の、大風いかづちなんどの様にきこえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは」」 |
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12 |
五節之沙汰 ごせつのさた 異:五節 付 都還 |
同じき十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原へ帰り上り給ふ |
頼朝は相模に帰り関東を固める。清盛は敵前逃亡に怒る。 | ||
13 |
都帰 みやこがえり |
今度の都遷りをば、君も臣もなのめならず |
清盛は福原から京へ都を戻した。 | ||
14 |
奈良炎上 ならえんじょう |
都にはまた、「一年、高倉宮園城寺へ入御の時 |
平家は清盛の五男平重衡を大将に、興福寺と東大寺を焼いた(南都焼討)。 「楯をわり、たい松にして、在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍に吹きかけたり」 |
※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。