今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽くして、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝度々行幸ありけり。
まだ院、住ませ給ひける折りに、夜中ばかりに、西の対の塗籠をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、晝の装束麗しくしたる人の、太刀はりて、笏取りて、二間ばかりのきて、畏りて居たり。
「あれは誰そ」と問はせ給へは、「ここの主に候ふ翁なり」と申す。「融のおとどか。」問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す。
「さはなんぞ」と仰せらるれば、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく所狭く候ふなり。いかが仕ふべからん」と申せば、「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我にとらせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ。礼も知らず、いかにかくは怨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、掻い消つやうに失せぬ。
その折の人々「なほ帝はかた殊におはします者なり。ただの人はそのおとどに逢ひて、さやうにすくよかには言ひてや」とぞ言ひける。