これも今は昔、丹波国篠村といふ所に、年ごろ、平茸やる方もなく多かりけり。
里村の者これを取りて、人にも心ざし、また我も食ひなどして年ごろ過ぐるほどに、その里にとりてむねとある者の夢に、頭をつかみなる法師どもの二十三人ばかり出で来て、「申すべき事候ふ」と言ひければ、「いかなる人ぞ」と問ふに、「この法師ばらは、この年ごろとて宮仕ひよくして候ひつるが、この里の縁尽きて今はよそへまかり候ひなんずる事の、かつはあはれにも候ふ。また事の由を申さではと思ひて、この由を申すなり」と言ふと見て、うち驚きて、「これは何事ぞ」と妻や子やなどに語るほどに、またその里の人の夢にもこの定に見えたりとて、あまた同様に語れば、心も得で年も暮れぬ。
さて、次の年の九、十月にもなりぬるに、さきざき出で来る程なれば、山に入りて茸を求むるに、すべて蔬おほかた見えず。
いかなる事にかと、里国の者思ひて過ぐるほどに、故仲胤僧都とて説法ならびなき人いましけり。
このことを聞きて、「こはいかに、不浄説法する法師、平茸に生まるといふ事のあるものを」と宣ひてけり。
されば、いかにもいかにも、平茸は食はざらんに事欠くまじきものなりとぞ。