俳 句 |
『おくのほそ道』 素龍清書原本 校訂 |
『新釈奥の細道』 |
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鐙摺、白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、 | 鐙摺白石の城を過笠島の郡に入れは | |
藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、 | 藤中將實方のつかはいづくの程ならんと | |
人に問へば、 | 人にとへば | |
「これより遙か右に見ゆる山際の里を、 | これよりはるか右に見ゆる | |
蓑輪、笠島といひ、 | 山ぎはの里をみのは笠島といふ | |
道祖神の社、形見の薄今にあり」と教ふ。 | 道祖神の社かたみの薄今にありとおしゆ | |
このごろの五月雨に道いとあしく、 | このごろのさみだれに道いと惡しく | |
身疲れ侍れば、 | 身つかれ侍れは | |
よそながら眺めやりて過ぐるに、 | よそながら眺めやりて過ぐる | |
蓑輪、笠島も五月雨のをりに触れたりと、 | 蓑輪かさしまもさみだれの折にふれたりと | |
♪ 18 |
笠島は いづこ五月の ぬかり道 | 笠島はイや いづこさ月の ぬかり道 |
以下Wikipedia『藤原実方』より引用。色づけは当サイト。
藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。…中古三十六歌仙の一人。
…一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生[2]。このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある[3]。しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。…
長徳4年12月(999年1月)任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は40歳ほどだったという。最終官位は陸奥守正四位下。また横浜市戸塚区にも伝墓所(実方塚)がある。