大和物語103段:平中が色好みなりけるさかりに

酒井の人真 大和物語
第四部
103段
あまの川
滋幹の少将

登場人物

 
 ♪♪平中=尉の君(平貞文)
 ♀故后の宮の御たち
 ♪♀武蔵守のむすめ=武蔵=尼=女
 亭子の帝(宇多天皇)

原文

 
 
 平中が色好みなりけるさかりに、市にいきけり。
 
 中ごろは、よき人々市にいきてなむ、色好むわざはしける。
 それに故后の宮の御たち、市にいでたる日になむありける。
 平中色好みかかりて、になう懸想しけり。
 のちに文をなむおこせたりける。
 

 女ども、
 「車なりし人はおほかりしを、たれにある文にか」
 となむいひやりける。
 

 さりければ、男のもとより、
 

♪151
  ももしきの 袂のかずは 見しかども
  わきて思ひの 色ぞこひしき

 
 といへりけるは、
 武蔵守のむすめになむありける。
 それなむ、いとこきかいねり着たりける。
 それをと思ふなりけり。
 
 さればその武蔵なむ、
 後は返りごとはして、いひつきにける。
 
 かたち清げに髪長くなどして、よき若人になむありける。
 いといたう人々懸想しけれど、
 思ひあがりて、男などもせでなむありける。
 されどせちによばひければ、あひにけり。
 

 その朝に文もおこせず。夜まで音もせず。
 心憂しと思ひあかして、またの日待てども文もおこせず。
 その夜した待ちけれど、
 朝に、つかふ人など、
 「いとあだにものし給ふと聞きし人を、ありありてかくあひ奉り給ひて、
 みづからこそ、いとまも、さはり給ふこともありとも、
 御文をだに奉り給はぬ、心憂きこと」
 など、これかれいふ。
 
 心地にも思ひゐたることを、人もいひければ、
 心憂く、くやしと思ひて泣きけり。
 その夜、もしやと思ひて待てど、また来ず。
 またの日も文もおこせず。
 

 すべて音もせで、五六日になりぬ。
 この女、音をのみ泣きて、物も食はず。
 つかふ人など、
 「おほかたは、なおぼしそ。
 かくてのみやみ給ふべき御身にもあらず。
 人に知らせでやみ給ひて、ことわざをもし給うてむ」
 といひけり。
 

 ものもいはでこもりゐて、つかふ人にも見えで、
 いと長かりける髪をかい切りて、
 手づから尼になりにけり。
 
 つかふ人集まりて泣きけれど、いふかひもなし。
 「いと心憂き身なれば、死なむと思ふにも死なれず。
 かくだになりて、行ひをだにせむ。
 かしがましく、かくな人々いひさわぎそ」
 となむいひける。
 

 かかりけるやうは、平中、
 そのあひけるつとめて、人おこせむと思ひけるに、
 つかさのかみ、にはかにものへいますとて、寄りいまして、
 寄りふしたりけるを、おひ起こして、
 「いままで寝たりける」とて、逍遥しに遠き所へ率ていまして、
 酒飲み、ののしりて、さらに返し給はず。
 
 からうじてかへるままに、
 亭子の帝の御ともに大井に率ておはしましぬ。
 そこにまたふた夜さぶらふに、いみじう酔ひにけり。
 

 夜更けてかへり給ふに、この女のがりいかむとするに、
 方ふたがりければ、
 おほかた、みなたがふ方へ、院の人々類していにけり。
 

 この女、
 いかにおぼつかなくあやしと思ふらむと恋しきに、今日だに日もとく暮れなむ。
 いきてありさまも、みづからいはむ。
 かつ、文をやらむと、酔ひさめて思ひけるに、人なむ来てうちたたく。
 

 「たそ」と問へば、
 「なほ尉の君に、もの聞こえむ」といふ。
 さしのぞきて見れば、この家の女なり。
 胸つぶれて、「こち来」といひて、文をとりて見れば、
 いと香ばしき紙に、切れたる髪を、すこしかいわがねて、つつみたり。
 いとあやしうおぼえて、書いたることを見れば、
 

♪152
  あまの川 空なるものと 聞きしかど
  わが目のまへの 涙なりけり

 
 と書きたり。
 

 尼になりたるなるべしと見るに、目もくれぬ。
 心きもをまどはして、この使に問へば、
 

 「はやう御ぐしおろし給うてき、
 かかれば御たちも、昨日今日いみじう泣きまどひ給ふ。
 下種の心地にも、いと胸いたくなむ。
 さばかりに侍り、御ぐしを」
 

 といひて泣く時に、男の心地いといみじ。
 
 なでふ、かかるすき歩きをして、
 かくわびしきめを見るらむと、思へどかひなし。
 

 泣く泣く返りごと書く。
 

♪153
  世をわぶる 涙ながれて はやくとも
  あまの川には さやはなるべき

 

 「いとあさましきに、さらにものも聞こえず。
 みづからただ今まゐりて」
 となむいひたりける。
 

 かくてすなはち来にけり。
 そのかみ、女は塗籠に入りにけり。
 

 ことのあるやう、さはりをつかふ人々にいひて、泣くことかぎりなし。
 「ものをだに聞こえむ。御声をだにし給へ」
 といひけれど、さらにいらへをだにせず。
 

 かかるさはりをば知らで、
 なほただいとほしさにいふとや思ひけむ、とてなむ、
 男は、よにいみじきことにしける。
 
 

酒井の人真 大和物語
第四部
103段
あまの川
滋幹の少将