大和物語168段a:深草の帝と申しける御時

女の衣 大和物語
第六部
168段a
良少将
苔の衣

登場人物

 
 深草の帝
 ♪♪♪良少将=少将大徳=僧正(六歌仙:僧正遍照)
 ♪♀女

原文

 
 
 深草の帝と申しける御時、良少将といふ人、いみじき時にてありける。
 いと色好みになむありける。
 

 しのびてときどきあひける女、おなじ内にありけり。
 「今宵かならずあはむ」と契りたりける夜ありけり。
 

 女いたう化粧して待つに、音もせず。
 目をさまして、夜や更けぬらむと思ふほどに、
 時申す音のしければ、聞くに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとに、ふと言ひやりける。
 

♪280
  人心 うしみつ今は 頼まじよ

 

 といひやりけるに、おどろきて、
 

♪280-2
  夢に見ゆやと ねぞすぎにける

 
 とぞつけてやりける。
 しばしと思ひて、うちやすみけるほどに、寝過ぎにたるになむありける。
 

 かくて世にも労あるものにおぼえ、つかうまつる帝、かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝、うせ給ひぬ。
 

 御葬の夜、御供にみな人つかうまつりけるなかに、その夜より、この少将うせにけり。
 友だち、妻も、いかならむとて、しばしはここかしこもとむれども、音耳にも聞こえず。
 法師にやなりにけむ。身をや投げてけむ。
 法師になりたらば、さてなむあるとも聞こえなむ、なほ身を投げたるなるべしと思ふに、
 世の中にもいみじうあはれがり、妻子どおはさらにもいはず、夜昼精進潔斎して、世間の仏神に願を立てまどへど、音にも聞こえず。
 

 妻は三人なむありけるを、よろしく思ひけるには、「なほ世に経じとなむ思ふ」と二人には言ひけり。
 かぎりなく思ひて子供などあるには、ちりばかりもさるけしきも見せざりけり。
 このことをかけてもいはば、女も、いみじと思ふべし。
 われも、えかくなるまじき心地のしければ、寄りだに来で、にはかになむ失せにける。
 

 ともかくもなれ、「かくなむ思ふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつつ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。
 この少将は法師になりて、蓑ひとつをうち着て、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。
 局近うゐて行へば、この女、導師にいふやう、
 「この人かくなりにたるを、生きてこの世にあるものならば、いまひとたびあひ見せ給へ。
 身を投げ死にたるものならば、その道なし給へ。
 さてなむ死にたりとも、この人のあらむやうを、夢にてもうつつにても、聞き見せ給へ」
 といひて、わが装束、上下、帯、太刀まで、みな誦経にしけり。
 みづからも申しもやらず泣きけり。
 

 はじめは、「なに人のまうでたるらむ」と聞きゐたるに、
 わが上をかく申しつつ、わが装束などをかく誦経するを見るに、心も肝もなく、悲しきこと、ものに似ず。
 走りやいでなまし、と千たび思ひけれども、思ひかへし思ひかへしゐて、夜ひと夜泣きあかしけり。
 わが妻子どもの泣く泣く申す声どもも聞こゆ。
 いといみじき心地しけり。
 

 されど念じて泣きあかして、朝に見れば、蓑もなにも涙のかかりたる所は、血の涙にてなむありける。
 「いみじう泣けば、血の涙といふものはるものになむありける」
 とぞいひける。
 「その折なむ走りもいでぬべき心地せし」
 とぞ、後にいひける。
 

 かかれどなほえ聞かず。
 御はてになりて、御ぶくぬぎに、よろづの殿上人、川原にいでたるに、
 童のことやうなるなむ、柏に書きたる文をもて来たる。
 
 とりて見れば、
 

♪281
  みな人は 花の衣に なりぬなり
  苔のたもとよ かはきだにせよ

 
 とありければ、この良少将の手に見なしつ。
 
 「いづら」といひて、もて来し人を世界にもとむれど、なし。
 法師になりたるべしとは、これにてなむみな人知りにける。
 されど、いづくにかあらむといふこと、さらにえ知らず。
 

 かくて世の中にありけりといふことを聞こし召して、
 五条の后の宮より、内舎人を御使にて、山々たづねさせ給ひける。
 
 「ここにあり」
 と聞きて、いけば失せぬ。
 「かしこにはあり」
 と聞きてたづぬれば失せぬ。えあはず。
 からうじて、かくれたる所にゆくりもなくいにけり。
 えかくれあへであひにけり。
 

 「宮より御使になむまゐり来つる」
 とて、
 「おほせごとには、
 『かう、帝もおはしまさず、むつまじくおぼしめしし人をかたみと思ふべきに、かく世に失せかくれ給ひにたれば、いとなむ悲しき。
 などか山林に行ひ給ふとも、ここにだに消息も宣はぬ。御里とありし所にも、音もし給はざなれば、いとあはれになむ泣きわぶる。
 いかなる御心にて、かうはものし給ふらむと聞こえよ』
 とてなむおほせられつる。
 ここかしこたづね奉りてなむ、まゐり来つる」
 といふ。
 

 少将大徳うち泣きて、
 「おほせごと、かしこまりて承りぬ。
 帝かくれた舞うて、かしこき御蔭にならひて、おはしまさぬ世に、
 しばしもありふべき心地もしはべらざりしかば、かかる山の末にこもりはべりて、死なむを期にてと思ひ給ふるを、
 まだなむかくあやしきことは生きめぐらひはべる。
 いともかしこくとはせ給へること。
 わらはべの侍ることは、さらに忘れ侍る時も侍らず」
 とて、「
 

♪282
  かぎりなき 雲ゐのよそに わかるとも
  人を心に おくらさめやは

 
 となむ申しつると啓し給へ」
 といひける。
 
 この大徳の顔かたち、姿を見るに、悲しきことものにも似ず。
 その人にもあらず、影のごとになりて、ただ蓑をのみなむ着たりける。
 少将にてありし時のさまの、いと清げなりしを思ひいでて、涙もとどまらざりけり。
 

 悲しとても、かた時のゐるべくもあらぬ山の奥なりければ、泣く泣く、
 「さらば」
 といひてかへり来て、この大徳たづねいでて、ありつるよしを、上のくだり啓せさせてけり。
 

 后の宮も、いといたう泣き給ふ。
 さぶらふ人々も、いらなくなむ泣きあはれがりける。
 宮の御返りも、人々の消息も、いひつけてまたやれりければ、ありし所にもまたなくなりにけり。
 

女の衣 大和物語
第六部
168段a
良少将
苔の衣