大和物語148段:津の国の難波のわたりに

生田の川 大和物語
第五部
148段
あしかり
沖つ白浪

登場人物

 
 ♪♪♀女
 男
 ♪主語なし

原文

 
 
 津の国の難波のわたりに家してすむ人ありけり。
 あひ知りて年ごろありけり。
 

 女も男も、いと下種にはあらざりけれど、
 年ごろわたらひなどもいとわろくなりて、
 家もこぼれ、使ふ人なども徳あるところにいきつつ、
 ただふたりすみわたるほどに、
 
 さすがに下種にもあらねば、
 人にやとはれ、使はれもせず、
 いとわびしかりけるままに、思ひわびて、
 
 ふたりいひけるやう、
 「なほいとかうわびしうては、えあらじ」、
 男は、「かくはかなくてのみいますかめるを見捨てては、いづちもいづちも、えいくまじ」、
 女も、「男を捨てては、いづちかいかむ」
 とのみいひわたりけるを、
 男、
 「おのれは、とてもかくても経なむ。
 女のかく若きほどに、かくてあるなむ、いといほとしき。
 京にのぼり、宮仕へをもせよ。
 よろしきやうにもならば、われをもとぶらへ。
 おのれも人のごともならば、かならずたづねとぶらはむ」
 など泣く泣くいひ契りて、たよりの人にいひつきて、女は京に来けり。
 

 さしはへいづこともなくて来たれば、このつきて来し人のもとにゐて、いとあはれと思ひやりけり。
 前に荻すすき、いとおほかる所になむありける。
 風など吹けるに、かの津の国を思ひやりて、「いかであらむ」など、悲しくてよみける。
 

♪248
  ひとりして いかにせましと わびつれば
  そよとも前の 荻ぞ答ふる

 
 となむひとりごちける。
 

 さて、とかう女さすらへて、ある人のやむごとなき所に宮たてたり。
 さて宮仕へしありくほどに、装束清げにし、むつかしきことなどもなくてありければ、いと清げに顔かたちもなりにけり。
 かかれど、かの津の国をかた時も忘れず、いとあはれと思ひやりけり。
 
 たより人に、文つけてやりたりければ、
 「さいふ人も聞こえず」など、いとはかなくいひつつ来けり。
 わがむつまじう知れる人もなかりければ、心ともえやらず、いとおぼつかなく、いかがあらむとのみ思ひやりけり。
 

 かかるほどに、この宮仕へする所の北の方失せ給ひて、これかれある人を召し使ひ給ひなどする中に、この人を思う給ひけり。
 思ひつきて、妻になりにけり。
 思ふこともなく、めでたげにてゐたるに、ただ人知れず思ふことひとつなむありける。
 「いかにしてあらむ。
 あやしうてやあらむ。
 よくてやあらむ。
 わがあり所もえ知らざらむ。
 人をやりてたづねさせむとすれど、うたてわが男聞きて、うたてあるさまにもこそあれ」
 と念じつつありわたるに、
 なほいとあはれにおぼゆれば、男にいひけるやう、
 「津の国といふ所の、いとをかしかなるに、いかで難波に祓へしがてらまからむ」
 といひければ、
 「いとよきこと。われももろともに」
 といひければ、
 「そこにはなものし給ひそ。おのれひとりまからむ」
 といひて、いでたちていにけり。
 

 難波に祓へして、かへりなむとする時に、
 「このわたりに見るべきことなむある」
 とて、
 「いますこし、とやれかくやれ」
 といひつつ、この車をやらせつ。
 
 家のありしわたりを見るに、屋もなし人もなし。
 いづかたへいにけむ、と悲しう思ひけり。
 かかる心ばへにて、ふりはへ来たれど、わがむつまじき従者もなし。
 かかれば、たづねさすべき方もなし。
 いとあはれなれば、車を立ててながむるに、
 ともの人は、
 「日暮れぬべし」とて、「御車うながしてむ」といふに、
 「しばし」といふところに、
 葦になひたる男のかたゐにやうなる姿なる、この車の前よりいきけり。
 
 それが顔を見るに、その人といふべくもあらず、いみじきさまなれど、わが男に似たり。
 これを見て、よく見まほしさに、
 「この葦もちたるをのこよばせよ。かの葦買はむ」
 といはせける。
 
 さりければ、ようなき物買ひ給ふとは思ひけれど、主の宣ふことなれば、よびて買はす。
 「車のもと近く荷なひ寄せさせよ。見む」
 などいひて、この男の顔をよく見るに、それなりけり。
 
 「いとあはれに、かかる物商ひて世に経る人いかならむ」
 といひて泣きければ、
 ともの人は、なほおほかたの世をあはれがる、となむ思ひける。
 
 かくて、
 「この葦の男に物など食はせよ。物いとおほく葦の値にとらせよ」
 といひければ、
 「すずろなる者に、なにか物おほくたばむ」
 など、ある人々いひければ、しひてもいひにくくて、いかで物とらせむと思ふあひだに、下簾のはざまのあきたるより、この男まぼれば、わが妻に似たり。
 あやしさに、心をとどめて見るに、顔も声もそれなりけると思ふに、思ひあはせて、わがさまのいといらなくなりたるを思ひけるに、いとはしたなくて、葦もうち捨てて走り逃げにけり。
 「しばし」
 といはせけれど、人の家に逃げて入りて、竃のしりへにかがまりをりける。
 

 この車より、
 「なほこの男、たづねて率て来」
 といひければ、ともの人、手をあかちて、もとめさわぎけり。
 人、
 「そこなる家になむ侍りける」
 といへば、この男に、
 「かくおほせごとありて召すなり。
 なにの、うちひかせ給ふべきにもあらず。
 物をこそたまはせむとすれ。
 をさなき者なり」
 といふ時に、硯を乞ひて文を書く。
 

 それに、
 

♪249
  君なくて あしかりけりと 思ふにも
  いとど難波の 浦ぞすみ憂き

 
 と書きて封じて、
 「これを御車に奉れ」
 といひければ、あやしと思ひてもて来て奉る。
 

 あけて見るに、悲しきことものに似ず、よよとぞ泣きける。
 さて返しはいかがしたりけむ、知らず。
 
 (車に着たりける衣脱ぎて、つつみに文など書き具してやりける。
 さてなむかへりける。のちにはいかがなりにけむ、知らず。)
 

♪250
  (あしからじ とてこそ人の わかれけめ
  なにか難波の 浦もすみ憂き)

 
 

生田の川 大和物語
第五部
148段
あしかり
沖つ白浪