大和物語138段:こやくしくそといひける人

志賀の山 大和物語
第五部
138段
こやくしくそ
あくた川

登場人物

 
 ♪こやくしくそ(通説:不明。童子や呼名の下につける呼称(旧大系)、くそは敬称(新編全集)、愛称で軽い敬称(全訳注)、「小薬師」(虚静抄)。私見:くそ中のくそ。「こやしくそ」が本来。前後の配置から元良親王)
 ♪♀ある人=女(旧大系・新全集言及せず。全訳注:「かくれ沼の」「水がくれて」の贈答が『伊勢集』にあるから、それによれば、伊勢のことなるも不明。私見:前後の配置から伊勢の御からとしこが聞いた話(といひける。六歌仙時代の話に比し過度に説明的でないから直接伝聞)。伊勢集333・334がそのまま215・216の歌。伊勢と元良親王は百人一首19・20で続く)

原文

 
 
 こやくしくそといひける人、
 ある人をよばひて、おこせたりける。
 

♪215
  かくれ沼の 底の下草 みがくれて
  知られぬ恋は くるしかりけり

 

 返し、女、
 

♪216
  みがくれに かくるばかりの 下草は
  長からじとも おもほゆるかな

 
 このこやくしといひける人は、
 丈なむいとみじかかりける。
 
 

こやくしくその解釈

 

 本段の「くそ」につき学説は、旧大系302p「童名や呼名につける呼称」、新編全集354p「敬意を表す接尾語」、全訳注下は「未詳。諸本も「こやくしくそ」(為家本)「こやくしこそ」(御巫本・鈴鹿本)とある。「くそ」「こそ」は愛称、軽い敬称の意もあった」(p63)「「くそ」「こそ」(=ちゃん)といった愛称がある」(p64)とする。しかしどこにそんな愛称の例があるか。

 上記の説は全て循環論法で不適当。最初に指定された文脈は「よばひ」とあるのに、男女情交話がひたすら続く本物語で、竹取以来の「夜這い」で無いように丸めたがるのはなぜか。解説者が大真面目な世間体を維持する必要のある教育者達だから。

 

 私見では「こやしくそ(肥やし糞=糞中の糞)」が本来。「こやくし」の「く」は筆跡のうねりの解釈で、写本がうねりを強調すればどうにでも認定できる。それが全訳注が指摘する「こやくしくそ」「こやくしこそ」の違いにでる。つまり「くそ」の文字自体認めがたかった。なので字を曲げるか字義を曲げてきた。

  

 私見のくそ男解釈は、次段「あくた川」(この有名な京中枢と密接な呼称は、セーヌ川的な人口集中のドブ川と同義で、淀川上流の汚川で鴨川の蔑称と解す。独自)で、元良親王が明示的に女をポイ捨てして恨まれる文脈から、糞男という解釈にも、元良親王と見ることにも一連の文脈の根拠がある。加えて登場人物で上述したように、本段二首がそのまま伊勢集にあること(なのに片方だけ紹介して単に不明とするのは極めて不合理。つまり見立てがおかしい)、伊勢と元良が直近で配置されること(定家の認識)にも関連付けることができる。

 

 旧大系の童名説は、貫之の幼称「あこくそ」を想定したと思われるが、これは十分賢い貫之の自虐であり、一般化に足る根拠がない(過度の一般化)。加えて文脈でも「よばひ」話だから、童名を持ち出すのは全く筋違い。

 

 少数説の小薬師説は「こやくし」表記を前提にした当てつけで、幼名敬称説同様、文脈に一切根拠がない観念論で不適当。

 

和歌の解釈

 

 学説は、総じて即物的に「下草は物かげに生えている草。ここでは水底に生えている水草」「恋を鯉に掛ける」、でありながら大意は「「あなたに知っていただけない私の片恋は苦しくてなりません」」(旧大系)とし、他もそうした解釈を方向にして展開しているが、一々反論するのも眩暈がするるので以下に改める。この解釈は当否と無関係に学者には受け入れられないだろうから、書として世に出ることはない秘伝の奥義とでも言っておこう。

 しかし以下の内容は世界文学史・ジェンダー(女性・表現)史的に見て世界的意義を有するものと思われ(大和物語自体がそう言える)、男性支配学説は自分達の理解しやすいよう無難化一般化して見て、女性学者もそこに入り評価される過程で男性本位思考に馴らされ、そのような意味を見出すことができなかった。

 

 なお、原文「みがくれ」(新全集)を「水隠れ」(旧大系)「水かくれ」(全訳注)にするのは即物的解釈によるもので不適当。よって「身隠れて」と「水隠れて」の掛詞とする新全集の注も不適当。「身隠れて」の意味しかない。「よばひ」して歌を即返す情況で背丈が草に隠れて片恋で苦しい、恋を鯉に掛け長続きしないとはどんな奇天烈な情況か。あまりにひどい。伊勢物語6段、58段でいう鬼はひどい奴と同義なのに、その意味を全く解せず情趣を解すなどとしておとぎ話風ピーターパン調でに解されるのと同じ構図。伊勢も大和も生の男女関係を描いているのであり、幻想的に描いているのではない。片恋なら片鯉か。さすがに鯉をいう旧大系説は受け入れられていないが、であればそういう解釈の方向自体おかしい。学説の和歌解釈は目も当てられないほど手当たり次第。貫之が歌の心をも知れるのは一人二人というだけある。自分では訳がわからないのに文献漁って見切った様に解説する風潮は、後続もそれを真似るのでやめてほしい。

 

 

 かくれ沼の:女性器の揶揄。かくれぬ=かくれた沼=表から見えない湿地。「かくれぬの」で隠れた・隠れてないどちらにも見れるおかしな表現。

 

 底の下草:下の陰毛の揶揄。「草」は陰毛が生えている例え。ツルツルにしていない。

 

 みがくれて:私の身(男性器)が隠れて=陰毛が処理されてなくて。
 この理解は源氏物語の光源氏を誘う老女・源典侍の歌「君し来ば 手なれの駒に 刈り飼はむ 盛り過ぎたる下葉なりとも」で受け継がれるが、これも学説は馬の話「あなたがいらしたならば良く手馴れた馬に秣を刈ってやりましょう」にして意味を通せない。この「駒」はVラインの毛の形の比喩。学者には受け入れがたいだろうが、画期的解釈と言っておこう。紫式部は紫式部日記最初の女郎花・白露の歌から、大和物語(29段をみなへし参照)を強く継承している)

 

 知られぬ恋は:私の愛が知れないとは

 

 くるしかりけり:心苦しくみ苦しい(下草だ)な

 

 返し

 

 みがくれに:物が隠れて 

 

 かくるばかりの:見えないというほどの

 

 下草は:下の毛は

 

 長からじとも:いうほど長くないとも

 

 おもほゆるかな:思われますがな

 

丈の解釈

 

 このこやくしといひける人は、丈なむいとみじかかりける。

 

 つまり短小。丈は男性器の長さ。

 男は萎えておらず本気で女が毛深くて心苦しかったという。それで女は萎えてこやつは糞(shit)と言った。夜這いに対する女性の率直な心として何の無理もない解釈。

 これが竹取以来の、伝統的な男女の滑稽なをかしとあはれ。他方で通説のどこに筋が通る。学説はそこから理解できていない。まず竹取冒頭で夜這いの説明があることも切り離し、「よばひ」のことを夜這い「という新解釈を示し」「いかにも現実にあったような事件であるかのように思わせている」(新全集p20)と捉える。そうではない。かぐや姫は3日で成長とあるのに、なぜ切り離してそう思う。文脈というのは土佐冒頭解釈のように前後数文字レベルの視野なのか。

 総じて自分達本位で解釈している。解釈の理解から全体主義的で低次元で背理しており、その必然生じる無理を曲解で正当化している(くそは敬称)、そうして言を左右にすることこそ学者の本分で解釈なのだと思っているフシがある。基礎根本理論の致命的欠如。国語の根幹がこうで、貫之が女を装ったとか大真面目に言い出すから、国全体で論理以前に物事の認識の仕方に問題がある。認知症が世界最多クラスなのと無関係に見れない。

 

 学説は一致してこの「丈」を背丈とするが、身長は高い低いであって、長い短いと言わない。古文学者の国語力は大丈夫だろうか。子供の心配をする前に大人が反省するのが先。

 そして自分が見えなくなるほどになり恋が伝わらず苦しいと解するが、「よばひ」話とあるのに「くそ」は童名で愛称で敬称とは全く通らない。ある意味私見より変態的。社会的立場ある人ほど夜になると変態化して幼児化すると聞いたことがある。

 

 比喩にしても、どういう背丈で、どういう草の長さなのか。ありえない。人の作品なのに、よってたかって受け入れやすいよう上書きするのはいただけない。

 

志賀の山 大和物語
第五部
138段
こやくしくそ
あくた川