大和物語18段:故式部卿宮、ニ条の御息所に

継父の少将 大和物語
第一部
18段
二条御息所
夕されば

登場人物

 
 故式部卿宮(887~930:宇多皇子敦慶)
 ♪27♀二条の御息所 (学説で議論あり。次段でこの二人の内容が繰り返され、私見では伊勢の御を一般名詞的に表現したものと解す。後述)

原文

 
 
 故式部卿宮、
 ニ条の御息所に絶え給ひて、
 
 またの年の正月の七日の日、若菜奉り給うけるに、
 

♪27
  ふるさとと 荒れにし宿の 草の葉も
  君がためとぞ まづは摘みける

 
 とありけり。
 
 

二条の御息所の意義

 

 本段の「二条の御息所」について主要学説の概要は以下の通り(:以下は引用)。

 

 旧大系:未詳。(以下巻末補注で)「二条の御息所」とは、通常、清和天皇皇后藤原高子のことをいうが、ここでは年代が合わない。「三条の御息所」(醍醐天皇皇女御藤原仁善子)とする説もある(虚静抄)もある。

 

 新全集:ふつう、清和天皇の后高子(たかいこ)(八四二~九一〇)をさすが、年代が合わない。「二位」と書入れしている本もある。三条右大臣藤原定方(八七三~九三二)は、延長四年(九二六)から承平二年(九三二)まで従二位、「二条」が「三条」の誤りと考えると定方の娘能子の可能性がある。→二十九段。

 

 全訳注:通説は、『大和物語拾穂抄』の「二条」を「三条」の誤写と見て右大臣藤原定方の娘·能子、醍醐天皇女御とする。
 これに対し、『大和物語』諸本の中で「二条」を「三条」とするものは一本もなく、誤写とは考えられず、森本茂氏は歌人伊勢(第一段参照)は「二条」に住んだことがあり、「伊勢御息所」とも称されているから、「二条御息所」は伊勢のことであろうとしている(『大和物語全釈』)。
 伊勢は敦慶親王との間に歌人中務をもうけているから考えられないことではない。
 しかし、「伊勢」は「伊勢の御」と称され、歌集その他にも「二条の御息所」と記された形跡はないし、語りの場では「二条の御息所」と言えば「二条の后藤原高子」が、真っ先に想定されると思われる
 敦慶親王とでは年齢差が問題となるが、実際はどうか別として、ここでは高子としたい。
 高子は業平と関連のある人物であるから、前段とのつながりがより濃厚になる。

 以上が学説だが、高子は842~910で敦慶22歳に約70歳で没し、陽成天皇の母という立場からも次段の久しい関係からも、高子という見立ては暗記主義的かつカオスな見立てで不適当。

 これは初段で宇多帝と対にした伊勢の御への直接言及をはばかった婉曲で、「二条」は内裏(後宮)を広域のそこら辺、つまり二条わたりと曖昧に示した抽象表現、権威中枢に近いことを表した象徴表現で(そもそも「二条の后」の由来から伊勢物語の昔男とパラレルにしてぼかした表現。世に流布して固有名詞化するがそれは本来ではない)。本段はその物議をかもした「二条の后」を流用したものと解する。独自。

 (なお古今にも「二条の后」とあるが古今は性質上原典ではありえず、また業平の原歌集も確認されておらず伊勢物語が原典という根拠しかない。伊勢の成立を古今後に回しているのは、ひとえに歴代の貴族本位の学者が、以下のような予断で根拠なく信じてきた古今の業平認定の理論的過ちを断固認めず不可侵にして死守するため後撰以後で場当たり無秩序認定を繰り返してきたため)

 

 全訳注は他文献に呼称の根拠がないとするが、これが学説の根本的に問題のある思考の一つで(自分達の見立てに沿わないと本文著者の問題で誤記とするのも典型)、本物語の表現の独自性・原典性、古典の核心である先例を受けながらの軽妙なオリジナリティを認めない(例えば、蜻蛉、枕草子、源氏末尾の「とぞ本に」を、後発の2本は明らかに本文と一続きなのに「と写本にある」と解するのが、何の疑いもはさまれない通説ドグマ)。

 すぐ他文献や注釈書(答え探し)に走り物語の文脈に多角的根拠を求めない。

 一つに「継父の少将」という一般名詞を固有名詞化した直前の16,17段の流れにあること。この記述は他文献に用例があるかといえばない。

 かつ「二条の御息所」という用例も実はなく古今でも後撰でも「二条の后(のまだ春宮の御息所と申しける時)」であって、二条の御息所とは伊勢物語と古今では一度も書いてない。この点、学説は基本の原文を軽んじている。というより自分達の評価、通説になると事実と混同する癖がある。

 事実に基づかない真っ先の想定は予断という。上記の学説の青字にした部分が予断。「通常」とか「ふつう」「語りの場」「真っ先に想定」として文献の根拠のない主観性を表している。そもそも宇多帝の息子が存在する900年代前半において高子は既に882年で皇太后と称されるのに何の留保もなく「御息所」とするのは侮辱の域にあり、ありえない(そういう文脈ならともかく)。

 伊勢の御は『伊勢物語』という呼称の由来との関連性が指摘されており(新編全集 伊勢物語232p「あるいは『伊勢物語』なる題号は、この伊勢御に結合されて生じたものであろうか」)、それほど特別な古今22首で女性筆頭の伊勢の御を、古今を象徴するフレーズ「二条の后」と並べ「二条の御息所」とすることもネームバリューとして実に相応しい。

 

具体的読解

 

 そして学説は人定では悩みをみせるものの、本段の和歌の人定については問題なく二条の御息所の歌のように説明するが、人定解釈とあいまり、そこまで自明ではない。

 その証拠に全訳注「若菜は通例、男から女へ贈るものであるが、ここでは逆になっているのは、玉光宮と称された美青年への御息所の切なる思いからか」としてもいる。

 しかし繰り返すがこの論考には、人定から「語りの場」とか「歌集その他」とか「玉光宮」等、幾重に御用系的観念論を根拠に論を展開しており論理面で問題がある。還暦のしかも先々々帝の母の高子に十代の盛りの青年が「久しく」(次段)「絶える」(本段)ほど通うか。まして「玉光宮」やそのような美貌を裏付ける表現など、本物語の原文には全くない。

 

 まず人定の見立てがおかしければ、その先の解釈をどれほど根拠を集めて論じても絶対に筋は通らない。逆に真なら、一見してわからなくても何の無理もなく通せる。それが理。こういう真理を明らかにしようとする謙虚な視点(西洋学問の根底にある神の視点、東洋では天道を意識した素朴な信仰)が欠けている。

 

 してみると、「故式部卿宮」宇多皇子敦慶と初段で宇多帝と初出した「伊勢の御」の間には子供(中務)がいた記録があり、つまり「久しく」「絶える」ほど通った確実な客観的根拠がある。

 それ以外で学説が想定する女性には、交際の根拠がない単なる推測に過ぎない。

 

 その伊勢の御から見ると、敦慶は一回り以上年下で「若菜」を奉る根拠もある。

 しかるにこの「若菜」は「正月の七日」で七草とみせかけ「荒れにし宿の草の葉」とあり、前々段からの「忘れ草」を受けた離別の揶揄と解すのが文脈に即した解釈。

 

 この御息所を全訳注のように高子と捉えることは実際的な不都合が上述のようにいくらでも湧いて来るが、伊勢の御とすればただ呼称の問題かつそうした問題は何もない、内実は一切の矛盾なく通る。そこら辺を転倒させて考えるのが本末転倒。内実が主で形式は従。形式は本質の理解にともなってついてくるもの。学生レポート・卒論の発想で何でもいいから形を整えて提出する結論には学問的意味はほとんどないから、そこに興味がない人には求めず、本当に有意な案が湧いて来るまで恋人と旅行してイチャイチャした方が人生的に有意義と思う。

 

歌の心

 

 高子認定は通説化している訳でもないが、古文和歌中核の「二条」の理解にかかわるので厚く論じた。

 

 自分達の形成した総意が、必ずしも原意である訳ではなくむしろ違う、というのが貫之の古の事と歌の心をも知る者は一人二人ということに表わされている。(古の事とは文献の知識・学識。そして本物語は歌物語)。

 なぜ自分達は貫之の知見を超えているかのように思えるのか。

 

 以上独自。

 

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18段
二条御息所
夕されば