大和物語13段:右馬允 藤原千兼といふ人の妻には

春の夜の夢 大和物語
第一部
13段
一条の君
池の玉藻

登場人物

 

 右馬允藤原千兼(11段の藤原忠房の子、11段の内容からとしこが仕えた源大納言清蔭と義兄弟。後撰集1首だが、としことセットの収録で、歌人としての実態はないと見る)

 

 ♪19♀藤原千兼といふ人の妻=としこ(俊子:後撰集2首、承香殿俊子:拾遺集) 和歌の認定につき、学説は千兼と解するが後述。

 

 ♪20♀内の蔵人にてありける一条の君(清和天皇皇子貞平娘・京極御息所女房)

 

原文

 
 
 右馬允藤原千兼といふ人の妻には、
 としこといふ人なむありける。
 
 子どもあまた出で来て、思ひてすみけるほどに、
 なくなりにければ、限りなく悲しくのみ思ひ歩くほどに、
 
 内の蔵人にてありける一条の君といひける人は、
 としこをいとよく知れりける人なりけり。

 かくなりにけるほどにしも、訪はざりければ、
 あやしと思ひ歩くほどに、
 

 この訪はぬ人の従者の女なむ逢ひたりけるを見て、
 かくなむ、「
 

♪19
  思ひきや 過ぎにし人の 悲しきに
  君さへつらく ならむものとは

 
 と聞こえよ」
 といひければ、
 

 返し、
 

♪20
  なき人を 君が聞かくに かけじとて
  泣く泣く忍ぶ ほどな恨みそ

 
 

 学説(旧大系、新編全集、講談社文庫全訳注)は一致して本段贈歌19を千兼の歌と認定するが、冒頭の「なくなり」をとしこ、「限りなく悲しく」を千兼と漫然とみなしており不適当。

 源大納言のような「故」という限定が一度もない物語最多和歌のとしこを失せさせ、本段のみの千兼が妻の友人に和歌を詠んだとする読解根拠がなく、そして何より見立てた結果もおかしい。

 千兼が妻の友人の一条の君にお悔やみに来ないのはなぜかと催促するのは不自然。他方でとしこが親しい一条の君になぜ慰めに来ないかと送ったと見れば自然な上に、返歌で恨むなと返すのも何の無理もない。逆に夫が妻の友人を恨む根拠は文脈のどこにもない。しかし学説はそう言っているのだから恨んでいたのだと自説を根拠に論じ始めるがそれを循環論法という。

 したがって、本段は夫の千兼が亡くなり、としこが歌を詠んだ内容でしかありえない。そしてそのような事情は紫式部のように宮中に出仕する根拠にもなる。完全独自説。

 

 千兼が一条の君の従者に会ったことが伊勢9段で修行者に会ったような印象(全訳注)とは何か。常に芝居がかった御用系解釈に馴れ切った弊害。

 

 解釈は常に一点から感覚で決め打ちするのではなく、原文表記から多角的に検証しなければならない。根拠が多角的になるほど強い解釈になる。そうだろう。一点から決め打ちして押し通すのは、非理知的な野蛮な態度。野蛮とは野蛮な自覚がない状態。

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