大和物語173段:良岑宗貞少将、ものへゆく道に

岸を洗ふ 大和物語
末尾部
173段
良岑宗貞
   

登場人物

 
 ♪♪良岑宗貞少将=男
 ♪♪♀丈だちいとよきほどなる人=女

原文

 
 
 良岑宗貞少将、ものへゆく道に、
 五条わたりにて、雨いたう降りければ、
 荒れたる門に、立ち隠れて見入るれば、
 五間ばかりなる檜皮屋のしもに、土屋倉などあれど、ことに人など見えず。
 
 歩み入りて見れば、
 階の間に梅いとをかしう咲きたり。鴬も鳴く。
 

 人ありとも見えぬ御簾の内より、
 薄色の衣、濃き衣上に着て、
 丈だちいとよきほどなる人の、髪、丈ばかりならむと見ゆるが、
 

♪292
  蓬生ひて 荒れたる宿を 鴬の
  人来と鳴くや たれとか待たむ

 
 と独りごつ。
 

 少将、
 

♪293
  来たれども 言ひしなれねば 鴬の
  君に告げよと 教へてぞ鳴く

 
 と、声をかしうて言へば、
 女おどろきて、人もなしと思ひつるに、
 ものしきさまを見えぬることと思ひて、ものも言はずなりぬ。
 

 男、縁にのぼりて居ぬ。
 「などか、ものも宣はぬ。
 雨のわりなく侍りつれば、止むまではかくてなむ」
 と言へば、
 
 「大路よりは漏りまさりてなむ。ここはなかなか」
 といらへけり。
 

 時は正月十日のほどなりけり。
 簾の内より、しとねさし出でたり。
 引き寄せて居ぬ。
 

 簾も、へりは蝙蝠に食はれて、ところどころなし。
 内のしつらひ見入るれば、
 昔おぼえて、畳などよかりけれど、口惜しくなりにけり。
 

 

 日もやうやう暮れぬれば、やをらすべり入りて、この人を奥にも入れず。
 女、くやしと思へど、制すべきやうもなくて、言ふかひもなし。
 

 雨は夜一夜降り明かして、またのつとめてぞ少し空晴れたる。
 男は、女の入らむとするを、
 「ただかくて」
 とて入れず。
 

 日も高うなれば、この女の親、
 少将にあるじすべき方のなかりければ、
 小舎人童ばかりとどめたりけるに、
 固い塩、肴にして、酒を飲ませて、
 少将には、広き庭に生ひたる菜を摘みて、蒸し物といふものにして、ちやう椀に盛りて、
 箸には梅の花の盛りなるを折りて、
 
 その花びらに、いとをかしげなる女の手にて、かく書けり。
 

♪294
  君がため 衣の裾を ぬらしつつ
  春の野に出でて つめる若菜ぞ

 
 男、これを見るに、いとあはれにおぼえて、引き寄せて食ふ。
 女、わりなう恥づかしと思ひて、臥したり。
 
 少将起きて、小舎人童を走らせて、すなはち、車にて、まめなる物、さまざまに持て来たり。
 「迎へに人あれば、今またも参り来む」
 とて、出でぬ。
 

 それより後、絶えずみづからも来とぶらひけり。
 よろづのもの食へども、なほ五条にてありしものは、めづらしうめでたかりき、と思ひ出でける。
 

 

 年月を経て、つかうまつりし君に、少将おくれ奉りて、かはらむ世を見じと思ひて、法師になりにけり。
 もとの人のもとに、袈裟あらひにやるとて、
 

♪295
  霜雪の ふる屋のもとに ひとり寝の
  うつぶしぞめの あさのけさなり

 
 となむありける。

岸を洗ふ 大和物語
末尾部
173段
良岑宗貞