大和物語171段:いまの左大臣、少将にものし給う

伊衡の宰相 大和物語
末尾部
171段
大和
岸を洗ふ

登場人物

 
 ♪いまの左大臣=少将の君
 式部卿の宮
 ♪かの宮に大和といふ人さぶらひける

原文

 
 
 いまの左大臣、少将にものし給うける時、式部卿の宮につねにまゐり給ひけり。
 かの宮に大和といふ人さぶらひけるを、
 ものなど宣ひければ、いとわりなく色好む人にて、
 女、いとをかしうめでたしと思ひけり。
 されど、つねにあふことかたかりけり。
 

 大和、
 

♪289
  人知れぬ 心のうちに もゆる火は
  煙もたたで くゆりこそすれ

 
 といひやりければ、
 

 返し、
 

♪290
  富士の嶺の 絶えぬ思ひも あるものを
  くゆるはつらき 心なりけり

 
 とありけり。
 

 かくて久しうまゐり給はざりけるころ、女いといたう待ちわびにけり。
 

 いかなる心地しければかさるわざしけむ、人にも知らせで、車に乗りて内にまゐりにけり。
 左衛門の陣に車を立てて、わたる人を呼びよせて、
 「いかで少将の君にもの聞こえむ」
 といひければ、
 「あやしきことかな。たれと聞こゆる人の、かかることはし給ふぞ」
 などいひすさびて、入りぬ。
 

 またわたれば、おなじこといへば、
 「いま殿上などにやおはしますらむ。いかでか聞こえむ」
 などいひて入りぬる人あり。
 うへのきぬ着たる者の入りけるを、しひて呼びければ、あやしと思ひて来たりけり。
 

 「少将の君やおはします」
 と問ひけり。
 「おはします」
 といひければ、
 「いとせちに聞こえさすべきことありて、殿より人なむまゐりたると、聞こえ給へ」
 とありければ、
 「いとやすきことなり。
 そもそもかく聞こえつぎたらむ人をば忘れ給ふまじや。
 いとあはれに、夜ふけて、人ずくなにてものし給ふかな」
 といひて入りて、いと久しかりければ、無期に待ち立てりける。
 

 からうじて、
 「これもいひつがでやいでぬらむ。
 いかさまにせむ」
 と思ふほとになむいで来たりける。
 

 さていふやう、
 「御前に御遊びなどし給へるを、からうじてなむ聞こえつれば、
 『たがものし給ふならむ。
 いとあやしきこと。
 たしかに問ひ奉りて来』
 となむ宣ひつる」
 といへば、
 「しんじちには、下つ方よりなり。みづから聞こえむとを聞こえ給へ」
 といひければ、
 「さなむ申す」
 と聞こえければ、さにやあらむと思ふに、いとあやしうもをかしうもおぼえ給ひけり。
 

 「しばし」
 といはせて、立ちいでて、広幡の中納言の、侍従にものし給ひける時、
 「かかることなむあるを、いかがすべき」
 とたばかり給ひけり。
 

 さて左衛門の陣に、宿直所なる屏風、畳などもていきて、そこになむおろい給ひける。
 「いかでかくは」
 と宣ひければ、
 「なにかは。
 いとあさましう、もののおぼゆれば、

 

 (以下切断。【群書類従では(以下欠)で172段に続く。以下の加筆部分はない】)
 (細字で加筆「後撰集 あつよしのみこの家にやまとといふ人に、左大臣、
 
  今さらに 思ひいでじと しのぶるを
  こひしきにこそ わすれわびぬれ」)

 
 

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