プロフィール

 

 30代半ば(2019年)まで古文と和歌には一切興味はなく(高校の授業以外は幼少の頃、坊主めくりをした記憶程度)、専門は法学・政治学・法律実務。

 しかし法律家になりたかったのではなく、何事もルール、普遍的ルールを知らなければいけないと思ったから。あとは自分で仕事をしたかった。

 

 時々の法律ではなく、憲法でも根本の天賦の人権理論(人は天により等しく創られた法理)など、根本理論とその精神に興味があった。

 この点、英米法の法の支配、法の下に平等という時の法、トーラー(創世記以来の律法書)以来の法の精神を、訳も分からず取り入れた日本は全く本来の趣旨を理解していない。だから日本の政治は上澄みほどいかに傲慢で幼稚になめくさるかを競う、人として虚しい言葉遊び劇場(御意見番も総じてこの類)。これを虚栄という。

 

 それはさておき、こうした法的理解が古文解釈にも必須だった。

 旧来の説に都合よく展開する学問ではなく、全てに通じる学問的思考を身に付けることを志す方には、必須の専門知識と思う。受け売りなら誰でもできる。

 

 高次の学問的な思考様式を身に付けることは、日本的優秀思想・官僚的若年優秀思想とは対極にある。

 

 そういう極論的経歴の寄せ集めを売りにする人々のニュースを見た時、人として底の知れたむなしい小物感がセットになるものと思うが、それが一つなら充実すると思う根拠は何か。日本は充実してるか。上手くいっているか。答えを決めたクイズを解きまくることは学問的でも何でもないが、日本の知性は根本でそういう類のもの。

 

 以降前置きが多少長くなるので、興味がなかった方はここまでにするか、古文の話の所まで飛んでほしい。

 

 法文と古文の理解は古来パラレルで、普通の文章で解釈を要することもない。
 特に多角的証拠に基づく事実認定理論、証拠法の理解、解釈法を身に付けた上で古文界隈の解説を見てみると、現状の古文界は、特に文言解釈になると、素人感覚論の積み重ねでほぼ全くの無法状態。
 総体的に書証の記述の認定の仕方、解釈を要する文言解釈の仕方が、多角的事実に基づき無理なく筋を通す論理に基づくのではなく、旧来の解釈の延長、前近代的・権威礼賛的・情緒感覚的なものにとどまり、自分達の見立てを根拠に言葉を曲げる背理が、批判を礼賛に曲げる曲解が、正解として通用してしまっている(その典型が古今和歌集について勅撰だからどんなに不都合が生じても真実とみなし続け、それに反する私文書(伊勢物語)は著者の事実誤認とみなし、また源氏桐壺冒頭のはじめより我はと「思ひ上がり」を「気位高く、誇り高くあろうとする態度」とするあからさまな曲解。例を挙げればきりがない)。

 

 社会科に置き換えれば、社会が普遍的な「法の支配」を認める段階になく、人が法を支配し人が理を決めているとみなしている「人の支配」状態。
 この「法」は、根本的には人が立てた法律という意味ではなく(西洋の律法の起源は、旧約聖書の創世記以降のモーセ五書。LawはLord aweful;畏るべき神という意味。独自)、聖書に手を置き誓うように血肉化した聖書律法主義と同義の英米法由来のコモンローに由来するもので、その知的な成果を訳もわからず利用しながら近代風を吹かせて日本だけが意味に勝手に変えられるものでもない。この意味を自分達で変えられないことは、中学生向けの教科書にも書いてある。
 そこまで理解が至らない人々が、自分達が好き勝手に立てられる法律と考え出して久しい。これが末法の世。
 自分達が決めれば何でもありにできると思うこれがまさに無法。法律が存在しない近代社会はおよそ存在しないから、そういう意味ではない。したがってこの国の為政の認識の根本は無法。だから地方国政問わず、言葉と考えが皮相的で危うい、陰でやましいことをしようとする為政者が続出し続ける。
 発想が安易だから、学問の全ての基礎・根幹(一つが法の支配)を単純で当たり前と思い、その反動で高等と思うことは無駄に小難しく見せる。国の制度を常にいたずらに複雑化させるのもそう。

 

 学問は法則を見つけ、それに則ること。学問の基礎は法。言語の根本も法。よって語法・文法という。

 理(ことわり・摂理)も法と同義。よって法を知らず文法・語法を説いても、根本的に受け売りなので、上から墨塗りされれば、明日から違うことを正解として教えるしかなくなる(墨塗前が正しいという意味ではない)。それは知性的・理性的と言えるだろうか。知性・理性とは何か。しかしそうした哲学に嘲笑的で(だから観念論ばかりで深まらない)、そういう所に興味を示さない所にこの国の知的な薄さと弱さがある。それは情報化で垣間見える列強が生み出す知的コンテンツ・フォーマットと比較するとあまりに明らかではないだろうか。「思ひ上がり」を自負とする解釈も、訳のわからないままの暗記を良しとし、体系的理解と無知の知の理解を欠く社会全体の考え方の表れと思う。

  

 基礎理論は高次の精神的法則(found a mental; higher order)と同義だが、日本古文の基礎理論は理念なき単純分類、物語・日記・随筆・恋歌・屏風歌等、そらそうだレベルの分類・品詞分解・活用分類しかない。大原則の精神、優先順位がないものは体系(システム)とは言えない。そうした優先順位の筆頭に据える肝心の理念に、竹取の物語解釈のようなみだりな貴族皇族礼賛を据え、著者の思考を御用学者と同様にみなして押し切る点は、明治~昭和以来の学問教育的態度から何も変わっていない。古文の教科書の語注は、微妙で難解な所ほど理由を示さず断定して説明の体をなしてもいない。
 

古文のきっかけ

 
 
 ある時勤めていた会社に小野さんという女性が来た頃、空いた時間に竹取物語と伊勢物語を読み、見たまま意味が解る事が分かり、竹取物語のかぐや姫は小町の揶揄であること、伊勢物語では無名の昔男に業平を代入する現状の解釈が全て失笑レベルで誤っていることが、それらを見た時点で直ちに解った。

 

 特に伊勢物語については、しばらく少しでも世間にある業平礼賛の解説を読んだら失笑を通り越し、度し難い怒りが湧いてくるが、今の私が伊勢物語に熱くなる理由が全くなく(世間的にも日本の学者から見ても私の方が失笑レベルの門外漢で怒ってどうなる位の理性はもっている)、他の作品ではどんなに大真面目で馬鹿げた通説の解釈を見ても基本失笑どまりなので、これは本人の感情と思う。
(国を代表するかな和歌の根本を、恥ずべき感性で世襲淫奔の作品とみなして卑しめ、辻褄が合わなくなり、後撰集以来の学者は古今の業平認定の過ちを認めず捏造に走ってきたが、最近どこかにあったはずの業平原歌集と言い出し、つまり業平の歌とみなせる証拠は確認できないと有力な学説は認め、業平名声から伊勢物語をとると業平名声の根拠・六歌仙たる根拠は何も残らないのに、業平の実像を超えた仮託などと言を左右に適当なことを言い出し、業平橋とかいう空虚な既成事実化も見るのも耐えがたい、という感じで止まらなくなる)

 

 つまり六階の六つの席に小野さんが来て、私の康秀という名前と会社で文屋性が発動し(ちなみに文屋とは、中学歴史で習う六歌仙の一人で、小町も六歌仙の一人だが、小町と異なりほとんどの人に記憶に残っていないであろう文屋康秀のこと)、竹取と伊勢が、刑事系判事かつ後宮の縫殿にも勤めた文屋の作で(その職場に職場見学で判事が来ていたがそれは普通ではないだろう)、文屋の前身は古事記の安万侶で、万侶の字形を崩したのが人麻呂であること、万葉集が安万侶集の語呂合わせであることも、その精神的系譜が外国、司馬千・子牛・シヴァ8番目・ヤハウェにあることも、ヤ・ハ・八が唯一(、)神の枕詞であることも、牛がシヴァ神の乗り物という信仰の訳も(霊的に肉体は乗り物という)、後宮的性格、公権力を私物化する権力者批評性、地方を回る詩人性に照らして分かる。

 

 でなければ、古文漢文はセンター試験程度で、和歌に何の興味もなかった素人が、伊勢物語を本格的に読み始めた2020年3月にHPを開き、独自の全話解説と成立論を巷の解説を参考にせずに立て始め、2020年末に一通り完成し、2021年6月に米東海岸名門大学ドメインの教授のアドレスから「伊勢物語について検索しておりましたら、このサイトに辿り着きました。作品に関する研究に感心しております。論文(英文にて)に引用させていただきたいのですが、この研究者名を教えていただけませんでしょうか」という連絡を頂けることは、全くありえないことではないか。

 自分で発表ではなく引用しかも英文(実際引用されたかは不明だが、最近は論文サイトで中国名の方に古事記を引用してもらっている)。その説明として天才というより、本人の生まれ変わりという方がまだ容易と思う。

 

ここで生まれ変わりというのは、世間的にイメージされるように本人そのものではなく、一つの本体(グループソウル・類魂)から派生した別々の個体でそれをアバターともいう。それはあたかも血でつながった家族が一つの体(母親)から派生しながら別々の意識で活動するようなもので、身内は誰より習性や考え方を理解しているのと同じ。一つ一つは機能制限された子機。その独立した内線でつながる家の中は、外部の人(学者)、あるいは霊能力者をもってても絶対に推測以上にうかがい知ることはできない。その天道・天命の精神を継承してきた別格の古典の著者達は、遠かれ近かれその大きな精神的グループに含まれる(本家と分家の関係。本家中の本家が主要国根本の聖典)。それが本物という証拠として古来「しるし」がパンを増やす、かゆを沸かすなどの目先の超能力とされてきたが継承のしるしの王道は一つに名前。世間的には親と子、ここでは前の名と名前(必要条件。十分条件は他人では知りえないことを、具体的に証拠立てて話せること。想像なら誰でも言える)。それは自称で決められない)。

 

 上記メールの十日後、対極をなすように、匿名のおいらという男性から、書いてることが滅茶苦茶な妄想だからもっと勉強した方がいいというメールが来た。一年でメールが来たのはその二通のみ。私の古文の無学が我慢ならない位には勉強されたようで、伊勢各段解説は自分でも見るに堪えない乱文なので、気持ちは分からないでもないが、この二通のメールが、日本と海外の知的態度の違いをまざまざ象徴していると思った。