原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
---|---|---|
故天皇 崩後。 |
かれ天皇 崩かむあがりまして後、 |
そこで天皇が お隱かくれになりました後に、 |
無可 治天下之王也。 |
天の下治らすべき 御子ましまさず。 |
天下をお治めなさるべき 御子がありませんので、 |
於是。 問 日繼所知之王也。 |
ここに 日繼知らしめさむ 御子を問ひて、 |
帝位につくべき 御子を尋ねて、 |
市邊 忍齒別王之妹。 忍海郎女。 |
市の邊の 忍齒別おしはわけの王の妹、 忍海おしぬみの郎女、 |
イチノベノ オシハワケの王の妹の オシヌミの郎女、 |
亦名 飯豐王。 |
またの名は 飯豐いひとよの王、 |
またの名はイヒトヨの王が、 |
坐 葛城忍海之 高木角刺宮也。 |
葛城の忍海の 高木の 角刺つのさしの宮に ましましき。 |
葛城かずらきのオシヌミの 高木たかぎの ツノサシの宮に おいでになりました。 |
古事記と日本書紀で飯豊王の扱いは全く異なり、皇統を絶やさないよう王を探し求めるという重要なつなぎ役だが、日本書紀では完全にどうでもいいレベルの存在にされている(男子皇統の所定の意志によらない継承断絶を防ごうとする後の作り話、かつ女子が権力中枢に入ることを極力避けたものと解される)。
「雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。
皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
清寧天皇5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。
なお、『古事記』では2王の発見は天皇崩御後の出来事としている。」(wikipedia清寧天皇#略歴)
このように、
『日本書紀』によれば、清寧天皇の治世中にすでに億計尊(おけのみこと)と弘計尊(をけのみこと)は発見されており、後継問題は解決されていたが、清寧天皇崩御後に億計尊と弘計尊が皇位を相譲したため、飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。
ところが『古事記』によれば、清寧天皇崩後に皇嗣なく、飯豊王が執政していたが、やがて(つまりその執政期間中に)億計・弘計の兄弟が発見され、兄弟を播磨から迎えたとある。
このように記紀では事実の経緯・叙述の趣向が異なっている。(wikipedia飯豊青皇女#清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説)
つまり古事記と日本書紀の記述は両立しえない以上、少なくともどちらかは完全に虚偽で、事実に反しているが、男と体制にとって都合が良いのは日本書紀。
『日本書紀』の説の問題点は、飯豊青皇女が執政を始めた時は億計尊・弘計尊の兄弟はもう宮中にいて、この兄弟の代理で一時的に政務を預かったにすぎないばかりか、ちょうど都合よくなぜか1年に満たない執政10か月で死去して顕宗天皇が即位したため、清寧天皇と顕宗天皇の間には空位年がないことになっていることである。これは『日本書紀』が編年の都合上、飯豊女王の執政期間を切り詰めたのではないかと疑われる。
『古事記』の場合、先々の皇位継承がどう考えられていたのかが不明瞭である。男子後継者候補がまったくいなかったとすると、飯豊王の執政は問題の一時先送りにしかならず、後世の女帝と比べてもまったく類例のないことになる(それゆえ『日本書紀』を正しいとする説もある)。逆に、後世の女帝のあり方から類推すると、男子皇族間の皇位継承争いの予兆があってそれを緩和ないし未然に防ぐ意図があったかとも思われる(少なくともこの時、後の継体天皇が属した応神天皇に連なる息長系と、倭彦王が属した仲哀天皇に連なる家系の2つはあり、他にも男系子孫がいた可能性もなくはない)。執政期間は不明であるが、もし長期間に及んだものであれば、中継ぎとはいえ本格的に女帝に近い存在だったといえよう。(引用同上)
最後の方の、類例がないから日本書紀が正しいというのは、後世を尺度を絶対視した還元論法・過度の一般化で不適当。女帝の類例というが、女帝(不即位天皇)と認定したのは後世の人々で、古事記は女帝としていない。
古事記は元来元明帝の下で執筆されており、女性を立て天照も特別扱いしている。それ以外に日本が社会レベルで女性を長として上に立てることなど、霊異ともいうべき、まぐれレベル。それは一般の意識を反映したものではない。その古事記が女帝とはしていないから、後世の言葉で言えば摂政。後のシビを討つ描写で、朝は朝廷、夜はシビの家(志毘門)というように朝廷・皇統・御門の血統の権威自体が揺らいでいたことが示され、そもそも忍歯王自体が先帝雄略により不敬として殺され、それでオケとヲケは逃れて失踪したのであり、宮に跡継ぎとして迎え入れられた忍歯王の子ヲケ王が欲した嫁候補の手をシビが堂々取る描写のように、クーデターの危険がある時期だったので、便宜上のわら人形としてまつりあげられた。
『古事記』の解釈はさらにわかれる。折口信夫の解釈によれば、飯豊皇女は巫女であるか、ないしはそれに近い神秘的な人物であり、執政していたのではなく、清寧天皇崩御後に、巫女として「誰に皇位についてもらうべきか」と神託を仰がれて、その段階ではまだ発見されていなかった億計尊・弘計尊の兄弟の名を託宣したのだという。
ただし、神功皇后や倭姫王などの例があるように、古代の女性皇族で巫女的な資質をもっていた人がいてもまったく不思議ではないが、記紀をみる限り、飯豊女王について巫女的な要素が直接うかがわれるような記述があるわけではなく、あまり巫女的な面を強調しすぎることには慎重であるべきとする説もある。(wikipedia飯豊青皇女#託宣の巫女説)
慎重であるべきというのは慎重な言い方であって、古事記の飯豊王の表現中に直接の根拠、間接的でも必然と言えるほどの根拠は全くないので、それを古事記の解釈とは言わない。ただの想像。こういうことが一つでもあると、撤回しない限り論者の基本的解釈レベルが疑われる。万歩譲って巫女だったとして、ここでの最大の問題点・古事記と日本書紀との違いにどのような影響をもたらすのか。
ここでの議論が厚いことからも、地味ではあるが、皇統にとってかなり問題のある部分だったと言える。