原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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オホケとオケ逃げる(オシハの子) |
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於是。 市邊王之 王子等。 |
ここに 市の邊の王の 王子たち、 |
それで そのオシハの王の 子の |
意富祁王。 | 意祁おけの王、 | オケの王・ |
袁祁王 | 袁祁をけの王 | ヲケの王の |
〈二柱〉 | 二柱。 | お二人は、 |
聞此亂而 | この亂を聞かして、 | この騷ぎをお聞きになつて |
逃去。 | 逃げ去りましき。 | 逃げておいでになりました。 |
山代之猪甘 |
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故到山代 苅羽井。 |
かれ山代やましろの 苅羽井かりはゐに到りまして、 |
かくて山城の カリハヰにおいでになつて、 |
食 御粮之時。 |
御粮かれひ きこしめす時に、 |
乾飯ほしいを おあがりになる時に、 |
面黥 老人來。 |
面め黥さける 老人來て |
顏に黥いれずみをした 老人が來て |
奪其粮。 | その御粮かれひを奪とりき。 | その乾飯を奪い取りました。 |
爾其二王。 | ここにその二柱の王、 | その時にお二人の王子が、 |
言不惜粮。 | 「粮は惜まず。 | 「乾飯は惜しくもないが、 |
然。汝者誰人。 |
然れども汝いましは誰そ」 とのりたまへば、 |
お前は誰だ」 と仰せになると、 |
答曰。 我者。 山代之猪甘也。 |
答へて曰さく、 「我あは 山代の豕甘ゐかひなり」 とまをしき。 |
「わたしは 山城の豚飼ぶたかいです」 と申しました。 |
馬飼牛飼になる |
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故逃 渡玖須婆之河。 |
かれ 玖須婆くすばの河を 逃れ渡りて、 |
かくて クスバの河を逃げ渡つて、 |
至針間國。 | 針間はりまの國に至りまし、 | 播磨はりまの國においでになり、 |
入其國人。 名志自牟之 家。 |
その國人名は 志自牟しじむが 家に入りまして、 |
その國の人民の シジムという者の 家におはいりになつて、 |
隱身。 | 身を隱して、 | 身を隱して |
役於 馬甘。 牛甘也。 |
馬甘うまかひ 牛甘うしかひに 役つかはえたまひき。 |
馬飼うまかい 牛飼うしかいとして 使われておいでになりました。 |
意富祁王と袁祁王という呼称(オホケとヲケ、兄のオホケは単に意祁・オケとも表記される)は、王家に当てたものと解する。
卑しい身分に落ちたことから、王家とすることに意味がある。
ここでの「玖須婆」之河は、崇神天皇でのくそばかま・屎褌を受けた久須婆。武田注釈ではいずれも淀川。「渡玖須婆之河」は、そのような人々の中に入ったという意味。それで馬牛。
これをありえないとして、以下のように実在性を疑う説がある(wikipedia顕宗天皇から引用。ここで両者の実在性は、史実という点で大した問題(有無を確定させる実益、それで大きな認定が左右されること)はないと思うが、古事記や古文の事実認定の仕方にとって極めて大事な論点と思うので、以下検討する)。
津田左右吉は億計・弘計2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、その史実性を疑い、実在しない架空の人物だと主張した。現在でも実在を疑う説がある[2]が、その原因は記紀の所伝の内容があまりにも現実的では無いことにある。
まず非実在説筆頭の津田説だが、「典型的な貴種流離譚」というのは彼が編み出したという分類であり、この説はその分類に当てはまる記述は全て虚偽であるという彼の評価を暗黙の前提にしているため、その評価が事実に即していない(一つでも反例、実例の間接的証拠が複数ある)と判明したら、この論は成り立たない(非実在とは断定できない)。また典型的ということも、それなりの裏付けがあるという方向の要素にもなりうる。
また「実在を疑う…その原因は記紀の所伝の内容があまりにも現実的では無い」ともあるが、それでは仁徳の三年租税免除は非現実なので史実ではないということで良いのだろうか。この租税免除は万葉1・百人一首1同様、後世の統治者へ向けた意図的な教訓のフィクションと解されるが、そうではなく真実とみるなら(これを疑う説は寡聞なのでまだ見たことがない)、ここでの非実在との違いは何か。三年租税免除に典型的な類例はあるか。かたやオケとヲケの流離は典型と認定されている。
「あまりにも劇的な展開である。これは生まれが貴い身分の人物が落胆の身になり、流浪の旅をして成長する貴種流離譚の典型的なものである。なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない」
ともあるが、実存しない「旧辞に取り入れられた」と、裏付けがとれないことを無条件に前提にする点でも、この説は論理的に事実に基づいておらず、この点だけでも不適当。
自分達の見立てを論証しようとする中で複数の伝聞を経て、その見立てが権威的な人々に事実と混同される(事実と評価を区別する態度がない)ことは、古文における事実認定の極めて典型的な問題。
(例えば、仮名は女手だから貫之は女を装ったという支配的通説。女を装った文脈はなく、むしろ解由(辞令)など男の文脈でしかないのに「女もしてみむ」の6文字だけで、女の私と自明の事実に反することを当然のように補う。貫之はなぜ女を装ったのだろうか、と独善的に正当化する議論まで始める。事実や文脈を完全に無視し、自説に都合の良い一面的な視点でしか検討しない。視野が極めて狭く、事実との整合性・一貫性を重んじない。本当に装ったのかという方向では考えない。前提の当否・自説にとって最も痛い反論(クリティカルな議論)を全く想定しない。安易で独善的だから脆弱。これが日本の国レベルのロジックで論理的思考能力。独善的で安易な弱い世界で満足する。貫之は古今仮名序を記したが女を装っていないし、古今上位20人中女性は2人だけ。文学史的にほぼ同時期の土佐時点で仮名だから女を装ったという客観的根拠は全くない。つまり思い込み。これが通説という現状)
古事記は、基本的に様々な元ネタありきの古事記の著者の物語と捉えるべきであり(平家同様。複数の学者による日本書記が冒頭説を羅列していることも、様々な参照の間接的根拠)、そのストーリーが劇的だったからといって、実在性とは全く別問題。実在性は、あくまで独立した他の記録による多角的裏付けをもって論じるべきものであり、その裏付けがあるなら、既存の分類とそれを過度に一般化する認識の方を見直す必要がある。
近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた[注 4]。…神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということ…また平田篤胤は梁書に登場する扶桑国の国王乙祁(おけ)が、仁賢天皇の名億計(おけ)に通じること、在位年代もほぼ一致することから、乙祁は仁賢天皇であり扶桑国とは日本のことだと主張した。
また、
梁書に大漢国の東2万余里にある扶桑国の永元元年(499年)時点の王の呼び名で諱とも考えられる「乙祁(オケ)」が記録されていること、宮内庁指定陵墓のボケ山古墳のボケも諱のオケに通じ、築造時期も6世紀初頭で矛盾しないこと、鏡の研究から考古学的に503年が有力となっている隅田八幡神社人物画像鏡に現れる曰十がオケ(億計/意居/意支)の略字とする説があることから実在性は高いとも考えられる。(wikipedia仁賢天皇)
以上の多角的論拠によれば、実在性を否定することはできない(話が劇的類型的という否定説の論拠でここに挙げられた指摘に対抗できない)。
オケ(及びヲケ)の実在と、物語がその通りであったかどうかは別問題。まずその論理構造を区別することが第一歩。
なお、物語の真否・内容真実性を論じる場合もまた、単なる観念的分類や、現実的ではないという専ら主観的評価によるものではなく、同様の客観的裏付けの有無(伝聞証拠の外部的特信性)をもって論じるべきものである。古事記は専門的な公文書であるから、基本的にその内容は信頼されるものであるが、例外的に他の文献・日本書紀などと明らかな齟齬をきたすような場合、双方0ベースで独立した事実の有無に即して検討すべきもので(最低でもどちらかは虚偽)、その場合でも編纂者や体制にとって類型的に有利な記述の方が、厳しく当否を検討されるべきものである。当人にとって不利な記述や陳述は、自発的であれば、証拠たる資格と強い証拠の価値があるというのは、この国だけでなく一般的・普遍的に承認されている体系的な証拠法・字事実認定法の理解(自ら不利なことを作出する動機は類型的になく心理的に多大な困難をきたす一方、有利な虚偽、特にこの国では、体制側の見立てた筋にそう記述も強力かつ容易に作出されうる)。
他人の飯を奪う行為と、それを咎めなかったこと、今までの祖先ならとても耐えられない屈辱(温泉に流され最愛の衣通姫も合流して自死する軽太子)の中、安易に死を選ばなかった。
論語渡来直後の仁徳の「仁」は、統治を語る上で特別な言葉。ここで猪甘の狼藉を咎めなかったのは、兄のオケこと後の仁賢天皇と解する。弟ヲケは、このことを根にもって、帝位につくとわざわざ赴いてこの老人を斬り、さらに一族の膝を切る蛮行に出て、さらに仇の雄略の陵を掘り起こそうとしたところ、兄のオケに諫められとどまった描写がある。つまりここで「爾其二王。言不惜粮」とあるが、兄の言うことに弟が従ったと見る。